2016年12月14日水曜日

アメリカ裁判官の気質

今夏、ケンタッキー州の女性被告人がズボンを履いていない状態で拘置所から公判廷に護送されてきた事件が話題になった。そのことに担当裁判官が激怒している映像が公開され、ワシントンポスト紙、ガーディアン紙、ハフィントンポスト紙など主要メディアでも取り上げられた。

ワシントンポスト
‘She has no pants and she is in court’: Judge outraged over inmate’s appearance
YouTube
Jail sends woman to court without pants

映像を見ると彼女の口ぶりから相当怒っていることが分かるが、その口から発せられている言葉がまた激しい。

“This is outrageous. Is this for real?”
outrageousは、理不尽な状況を避難する意味の形容詞の中でも最上級の部類に入る。あえて日本語にするなら、「許しがたい」「言語道断」といったところだろうか。
Is this for real? は直訳すれば「これは現実なの?」という意味だが、彼女は明らかに「こんなことは現実にあってはならないのに」という含意で言っている。

彼女は、裁判を始める前に、おもむろに拘置所に電話をかける。責任者が電話口に出るのを待っている間、 廷吏に彼女の下半身を隠すものを何か持ってきてと要求する。

 “Can we get her something to cover up with? Anything. Anything. Anything. I don't care what it is.”
ここでは Anything も I don't care what it is も同じ意味。つまり「何でもいいから」を4度くりかえしたところに、彼女のいらだちが現れている。

“Am I in the Twilight Zone? What is happening?"
トワイライトゾーンはもちろんあの怪奇現象を扱った映画のこと。ここでもやはり現実にはあってはならないことが起こっているという彼女の気持ちが、このような皮肉として出てきているのだろう。

ここから彼女は、早口で一気にまくし立てる。
“I have a defendant who has been in you all’s jail for three days who is standing in front of me completely pants-less. Has no pants on. She has requested pants for three days and has been denied pants for three day. She has no pants and she is in court. And she has also been denied feminine hygiene products."

そしてここで、極めつけの一言が発せられる。
“What the hell is going on?”

“What is going on?" は文字通り、いま何が起こっているの?という意味。マーヴィン・ゲイの名曲のタイトルとしても有名だ。しかしここに the hell が入っている。これはアメリカ人が口語でものごとを強調する言い方で、日本語で言えばクソ暑いとかクソ寒いの「クソ」のようなものだ。語感のとおりお世辞にも綺麗な言い方とはいえず、少なくとも裁判官が法廷で使う類いの言葉ではない。それを裁判官が公開の法廷で拘置所の責任者に向けて使っているのだから、まさに怒り心頭に発している場面だ。

日本の裁判官も実は法廷で、けっこう感情的になる人が多い。でもそれは自分の思い通りに物事が進まないときであって、法廷内の絶対権力者である彼ら彼女らの職業病であると僕は見ている。ところがこの裁判官Amber Wolfが怒っているのは、目の前の被告人が理不尽な目に遭っているからだ。裁判官が自分のためではなく他人のために、しかも犯罪を犯してここへ来た被告人のために怒っている、それが僕にとっては新鮮であり驚きだった。

日本ではなかなかありえないことが、ここからも続く。というのも、彼女は繰り返しこの被告人に対し、司法を代表して謝罪するのだ。その謝罪の文言も明確かつ力強い。
“I want to extend my deepest apologies to you for the way that you’ve been treated while you’ve been in our jail. This is not normal.”
ここでウォルフ裁判官は“my deepest apologies"という言い方をしている。さらにこの後にも彼女は“incredibly sorry"という言葉を使った。
周りの目を気にせず、組織の論理に埋没せず、自分の責任で自分の価値判断で行動するところがいかにもアメリカの裁判官らしい。であると同時に、彼女はあくまで司法という制度を代表して謝っている。冒頭部分で彼女は拘置所の責任者に対して強いアクセントで “our jail" (われわれの拘置所)という言葉を使っており、ここにも彼女の強い責任感が現れている。

権限と権力を与えられた者がその意味を理解し自分の責任で行使する、ある種の個人主義を体現できる公務員の集合体としての組織であって初めて、正義と公平の実現である「法の支配」は具体化しうるのであろう。アメリカはどの分野でも非常に振り幅の大きい社会であるが、ときどき「さすが立憲主義の母国だ」と感じさせてくれるところに強い魅力を感じる。



2016年12月8日木曜日

リトルロック高校事件

アメリカ憲法史上もっとも有名な判例の一つであるブラウン事件判決。これにより「分離しても平等」と正当化された人種分離教育は否定され、白人と有色人種が学校で席を並べる新たな時代が始まった。

しかし、アメリカの「伝統」を覆すことに対する白人層からの反発は大きく、リトルロック高校へ進学した黒人(アフリカンアメリカン)生徒9人の安全を守るため、大統領はついに連邦陸軍をこの田舎町に派遣した。これがアメリカ人なら誰もが知っているリトルロック高校事件の概略。

ブラウン判決とリトルロック高校事件のことはあちこちで度々目にするが、もっと詳しく知りたいと常々思っていた。そこへこの本の紹介文が飛び込んできた。

ELIZABETH AND HAZEL ~ TWO WOMEN OF LITTLE ROCK


リトルロック高校事件の象徴とされている有名な写真がある。この本の表紙下半分を飾っている写真だ。アメリカのたいていの教科書には、この写真が載っているらしい。

自分をにらみつける周囲の大人たちを無視して平然と歩むサングラスをかけた黒人少女。そして彼女へ向けて怨嗟の言葉を浴びせかける白人少女。前者はエリザベス・エックフォード、リトルロック高校へ入学した有色人種第1期生の1人。後者はヘイゼル・ブライアン、オシャレと恋愛にしか興味の無かった平凡な女子高生。1957年9月4日に撮影されたこの写真が、2人のその後の人生を決定づけた。その写真を撮影した写真家デイビッド・マルゴリックによって、リトルロック事件と「2人のその後」が描かれているのがこの本だ。

州兵、警察官に至るまでありとあらゆる大人がたった1人の少女を取り囲み罵声を浴びせる様は、活字で読んでいてもあまりにも醜悪だ。それだけに、市民が暴徒化したときに備えてエリザベスを守れる位置にさりげなく移動する州兵がいたり、ニューヨークなど都会から来た男性記者たちが彼女の防波堤になろうとした事実に心が救われる。しかし彼ら男性にはそれだけで精一杯。エリザベスを抱き寄せ、人垣を押しのけ、バスを捕まえて彼女を安全な場所まで避難させたのはグレイス・ロウチ、たった1人のよそ者白人女性だったことが興味深い。

1957年当時、エリザベスを含む9人の高校生たちに浴びせられた言葉は「アフリカへ帰れ」。ヘイトスピーチは60年前も今も、日本でもアメリカでも全く変わらず、そこに何らの創造性もオリジナリティもないことに少々驚いた。

ついに大統領が動き、後にリトルロック・ナインと呼ばれる高校生たちが登校できるようになってめでたしめでたし、とはならない。むしろメディアの注目が去った後、9人の高校生たちに対する嫌がらせは陰湿さを増し、結局ほとんどの子たちはリトルロック高校を卒業できなかった。エリザベスも卒業できなかったばかりか、その後長年にわたりPTSDに苦しむことになる。

他方でヘイゼルも、もともと政治的社会的問題に全く関心など無かったにも関わらず、その場の勢いに任せてエリザベスを罵倒し、たまたまその場面が写真に撮られていたがために「リトルロックの少女」という十字架を背負い続けることになる。しかしこちらはエリザベスと異なり、その痛苦の経験をプラスに変え、かつて自分が差別した黒人を含む貧しいマイノリティの若者を支援する市民運動のリーダーとなっていく。

アメリカン・ライターは、良くも悪くも読者を引きつける文章文体の構成に秀でた人が多い。しかしこの本の著者は、本業が写真家だから仕方ないと思うが、流れるような文体とは言えない。プロのライターなら切り捨てるであろう細かいエピソードも満載で、それを全部載せようとするところに彼の誠実さを感じる。非英語話者である僕には決して読みやすい本とは言えないし、全然ハッピーエンドではないストーリーではあるが、アメリカ人権史を代表する事件のディティールと偉大な女性2人の人生をありのままに知ることができた満足感には相当なものがあった。




2016年12月4日日曜日

万国の法律家よ、団結せよ

世界有数の巨大ローファームの元パートナー弁護士ウィリアム・リー氏が、ガソリンスタンドで給油していたところ、「国へ帰れ」と罵声を浴びせられ、その後もしばらく車でつけ回されたという記事。
In Wake of Election, Wilmer's Bill Lee Reveals Troubling Incident

日系人を含むアジア人に対するヘイトが出てくるであろうことは大統領選挙前から予想されていたし、実際に選挙直後から全米各地で勃発していた。しかし、この記事には正直驚いた。
というのも、このリー氏がかつて経営していた法律事務所は世界中に支店を持ち、1000人以上の弁護士を要する超巨大ローファーム。要するに彼は、僕のような庶民弁護士が今まで会ったこともなければ今後も接触することもないであろう、いわば特権階級の人だ。どれほどの金持ちなのか想像もつかないし、日常生活で使う店や施設も市井の人々とは違っているだろう。今回はたまたま郊外のガソリンスタンドに立ち寄った際の出来事とはいえ、そんな彼でも危険な目に遭うということは、もはやアメリカにマイノリティーにとって安全な場所などないということを示している。

リー氏は言う。

“As a profession, we must ensure that the rule of law that is our fundamental core value is our highest priority and applicable and available to everyone.”
プロフェッションとして、われわれ法律家は、われわれの基本的根源的価値である法の支配こそが最も尊重されるべきであり、かつそれが万人に適用されることを確保しなければならない。

実際、今回の大統領選挙の結果を受けて、アメリカの法律家の間でトランプ政権と対峙するための新たなネットワーク作りが進行しているという話も、友人のアメリカ人弁護士から聞いている。


15年ほど前、上海で最も成功していると言われる法律事務所を訪問する機会があった。その経営者たちはみな30代。当時の日中物価格差も勘案すると、彼らの年収は日本での2億円に相当すると聞いた。そのうちの1人に、今後の目標について尋ねた。

「この国(中国)に法の支配を実現したいんだ」

それが彼の回答だった。


昨年、路上で或いはメディア上で立憲主義という言葉をたびたび聞くようになった。平易な言葉で憲法を語ろうとするあまり、それまで立憲主義という言葉を避けていた自らを恥じた。その反省を生かして、いま法律家として自分がやらなければならないことは「法の支配」という概念をこの国に根付かせ、広めることではなかろうか。

今から70年前、この日本という国は「悪法も法なり」に象徴される形式的法治主義を乗り越え、個人の尊厳を保障し尊重しうる法のみがその存在を肯定される「法の支配」を中核的価値とする現行憲法を採用した。自分が日本国憲法を学ぶ中で日本国憲法から教えられた「法の支配」の実感は、国や地域や文化を越えて、世界中の法律家たちと心を通わせ、力を合わせることを可能にする共通言語だと確信している。



2016年12月3日土曜日

ギャラリーフェイク

11年前に連載が終わったギャラリーフェイクの新刊が出た。マスターキートンのそれもイマイチだったし、リバイバルものって9割9分ハズレだから、きっとこれもそうだろうと思ったのについつい買ってしまった。

いやいや、これはなかなかの傑作なんじゃない!?マンガで時事ものを扱うのって結構難しくてリスキーだと思うんだけど、この311のストーリーなら当事者の人たちでも違和感なく受け入れられるんじゃないだろうか。ヨーロッパのテロを題材にした話はユーゴ紛争もかませた上で昨今の移民排斥にも振れていて、ここまでいろいろ盛り込みながらこんなにマンガとしてのバランスを保っているのは本当に凄いと思う。

裕福ではない階層出身の僕がアートを自分なりに楽しめるようになったのはまぎれもなくギャラリーフェイクというマンガのおかげであることを思い出せたし、その恩人のようなマンガが十数年ぶりに復活しても素晴らしいクオリティであったことが嬉しくて嬉しくて堪らない。





2016年12月1日木曜日

「亡くなったら口座が凍結されるから〜」にご注意

相談者依頼者が「ネットにそう書いてありました」と言われたとき、僕はたいてい「それは誰が書いたものですか?弁護士ですか、弁護士以外ですか?」 と尋ねます。そうすると、大概の人は答えられません。著者が何者か確認していないということは、その情報の確度を全く検討していないということです。

相続問題をはじめ法律問題は基本的にどこまで行ってもケースバイケースだから、こういうときはこうなります、こうすれば良いという文章を書くのはとてつもなく難しい。だから弁護士の書くブログは、正確を期そうとするばかり、制度や事例の紹介だけの面白くないものになりがちなのでしょう。

他方、ライターさんが書いたこの記事は面白いし、読ませるし、親が亡くなったときにはいろいろ気をつけるべきことがあるという問題意識はとても良いと思う。けど、いかんせん内容が不正確です。

「父急死で預金が下ろせない!「口座凍結」の恐怖」ダイヤモンド・オンライン 西川敦子著

銀行窓口で名義人が死んだことを言っちゃったらめんどくさいことになるよ-、これは僕も必ず言います。ここにはそこまでは書いてないけど、「だから先に下ろしとけ言われたんです」という話をよく聞きます。それがいいかどうかは場合によるから、なかなか難しいところです。

親が亡くなった後に必要となる諸費用を生命保険使って横に避けておく方法も有用だと思う。ただし、それを勧めるかどうかと言えば、そのご家族の関係次第ですよね。
「遺産分割協議書を作成するには相続人全員の実印が必要」!?いやいや、その協議書の用途によるやろ。

「もっとも「成年後見制度」を活用すれば話が別だ」!?間違いとまでは言わないけど、それまで親が亡くなって口座凍結されたときの話してたのに、話がずれてるやん。
でもまあ、成年後見制度の活用は確かに大事です。
 
極めつきが「あらかじめ親に借金しておくこと」!?それ親の金を預かって代わりに支払いしてあげてるだけやん。何でわざわざ借金して立替払いして死後精算なんてめんどくさいことする必要があんのよ!?後々きょうだいと揉めないためにそういう手法をとる言うんやったら、葬儀費用に親の金使ったらアカンよね。 葬儀は喪主が出すもんなんやから。

いろいろ気になったところがあったので難癖つけてしまいましたが、こういうところが弁護士のライターさんに及ばない理由なのかもしれませんね。




2016年11月21日月曜日

子どもの洗濯物は多くて大変です

大阪地裁本庁の近くで久しぶりにKさんと会った。彼女はうちの事務所出身の弁護士で、若いのに4人の母。異常に仕事が速い彼女は子育てしながら、ときには子どもを産みながら(出産後数日でもしれっと法廷に現れる!)飄々と仕事をやってのける。

彼女と一緒に取り組んだ事件はどれもタフなものばかりで、思い出はたくさんある。そんな中でも最も思い出深いのは、僕が最新の洗濯機で一度に洗える量がいかに多くて楽をできるか熱く語り終えたとき、興味なさげな顔で聞いてた彼女が放った一言

「洗濯は彼(夫)の仕事なので、私にはどうでもいいです。」

2016年11月15日火曜日

銀河英雄伝説

週刊ヤングジャンプにて連載中の銀河英雄伝説が何とも魅力的で、久々に銀英伝熱が高まっております。しかし、週一連載マンガの進展が速いわけもなく、最後に読んだのが中高生の頃となればストーリーもほとんど覚えてないわけで、先が気になって気になって仕方がない。

藤崎竜氏の描き方は、一世を風靡した封神演義のそれとはかなり違っているけど、描画が緻密かつ迫力がありストーリー展開の絶妙さもさすが。何よりヤンやラインハルト、キルヒアイスといった登場人物の描き方が「そうか!こう来たか!?」と驚き半分納得半分といった感じで、原作ファンの複雑な気持ちを見事にもてあそぶもんだからたまらない。

この見事な冒険活劇となっている点こそが藤崎版の魅力ではあるんだけど、そうすると今度は原作の魅力である兵法、戦略論、戦術論が恋しくなる。

というわけでやっちまいました、原作本の購入。




20数年ぶりに読んでみた銀英伝は本当に面白くて、もう途中で読むのを止められない。止められないんだけど、「あれっ、こんなに政治描写満載やったっけ?」

しかもしかも、この政治描写は現在の日本と大阪をデフォルメしてるとしか思えない。1982年初版?えー?ほんまにぃ?田中芳樹は30数年後の未来を予測してこの作品を描いたのか?もちろんそんな訳はないはずで、彼は恐らく歴史上の独裁や民主主義の腐敗を抽出して、そのコアな部分を作品に載っけただけなのだろう。

そしてこの壮大なSF活劇の終幕が、立憲主義でまとめられることにも驚いた。これこそまさに2015年以降の日本政治を予見していたようではないか。これもまた膨大な歴史学知識に基づいて作品を紡ぐ田中芳樹という作家ならではの、人類史における普遍性を見抜く力なのだろう。
実はその後の作品、創竜伝があまりにもニヒリスティックにその時々の政治情勢を揶揄するのに食傷気味になって途中で読むのを止めてしまったのだけど、ここ最近の彼の作品にはそういう毛色が全くなくなってしまったことが気になっている。

2016年11月9日水曜日

アメリカ大統領選挙

昨夏、知人からの紹介で一晩だけホームステイを受け入れた。

彼女はボストンの大学に通う大学生。ついこないだ大学生になったばかりなのに、すでにノーム・チョムスキーの講演会に2度も参加し、大統領候補バーニー・サンダースやウォールストリート追求の騎手エリザベス・ウォーレンとも直接会ったことがあると言う。おそるべしボストン。なんだかんだ言っても、やはりアメリカ政治の中心地は東海岸だと思い知らされる。

バーニー・サンダースの大統領選撤退が事実上決まったとき、思わず泣いてしまったという彼女。彼女の父親ももともとはバーニーを支持していたが、民主党の大統領候補がヒラリー・クリントンに決まるや否や、なんとトランプ支持に変わったそうだ。

「なんでバーニー支持からトランプ支持に変われるんだ?両者はまるで正反対じゃないか?」

という僕の質問に対して、少し考えた後の彼女の答えは、

「それだけヒラリーが嫌いな人がいるっていうことなの」

いわゆるエスタブリッシュ(支配者層)嫌いがアメリカでかつてなく広がっているというのは、どうも間違いないようだ。確かに僕が在米していた2011〜2012年当時も、それはすでに感じられた。

「でもトランプは、『メキシコ人は泥棒だ』とか『イスラム教徒はテロリストだ』とか酷いことを言うじゃない。君のお父さんはそれには平気なの?」とさらに食い下がった。
男手一つで彼女を育て上げた父親は、自分自身が裕福でないにもかかわらず、ホームレス支援のボランティアなどを熱心にする人だと聞いていたので(父親と一緒にホームレスへの炊き出しを手伝いながら「うちより良い物食べてるじゃない」と子どもながらに思っていたそうだ)、そんな人がトランプを支持する姿が想像できなかったからだ。

それに対する彼女の答えは、

「あの街(オハイオ州シャロンセンター)の人たちは誰も、実際にはメキシコ人もイスラム教徒も会ったことがないから、そういうことをあっさりと信じてしまうの」

というものだった。それが事実だとすれば、今のアメリカは想像していた以上に深刻だ。また、日本にも同じ現象が起こりうるという意味では本当に恐ろしい。


ところで、まさに典型的な白人貧困層の彼女がどうしてボストンの有名私立大学に入学することができたのかが気になって、そのことも尋ねた。連邦政府の給付型奨学金を得ることができたので、大学を卒業するまでの学費は保証されているそうだ。酷い環境の中から這い上がってきた優秀な学生にだけは急激に手厚くなる良くも悪くもアメリカ的な競争システムは、這い上がろうとする者にも冷たい日本型システムよりはベターなんだろうか?




2016年11月8日火曜日

ミサイルという兵器

古 いMACからデータ移行作業してたら見つけた2006年の映像。イスラエル軍がレバノン南部のカナ村に侵攻してきたとき、村で一番大きくて丈夫な鉄筋コン クリートの建物に避難した20数名が、戦闘ヘリの発射したミサイル1発によってみな殺害された。彼らを埋葬する共同墓地と空爆現場で撮影した。






6枚目の写真中央に写っているグシャグシャの鉄の板は、この子たちを殺したミサイルの破片。試しに持ってみると、わずか1メートル四方足らずの板が20㎏ くらいあり、重くてなかなか持ち上がらない。爆風とともにこんなものが紙切れのように飛んできて人の体を切り裂く、それがミサイルという兵器だと実感した瞬間。

建物のがれきはすでに片付けられていたけど、その跡地からミサイルの威力をうかがい知ることはできた。





2016年11月4日金曜日

大阪に対する信頼

アメリカ人の友人が泊まりに来た。

関空で買ったSIMカードが機能しないということで、近所のドコモショップに行った。英語の出来る人がいないので、わざわざ別の店(本社?)に電話つなげて対応してくれたそうだ。SIMカード自体はドコモの製品ではないので本来彼らが対応する義理はないのだが、電話越しにいろいろ指示して試してくれて、な んとか通信機能だけは使えるようになったとのこと。結局、電話できるようになってないのだけど、彼女はもの凄く満足して帰ってきた。

昨日も彼女は1人で伏見稲荷に出かけていった。その近くの食堂で昼食をとった後、そこのおっちゃんだかおばちゃんだかと1時間もしゃべってきたらしい。どうやって?と尋ねると「ほとんどジェスチャーで!」とのこと(笑)

どこでもみんな親切だから全く困ることはないと言って、毎日嬉々として1人で出かけていく。

無名の庶民の自然体の思いやりが無数に積み重なり、日本や関西に対する信頼を少しずつ地道に形作っていく。しかしSNS時代のいま、市場寿司のような店がたった一店舗あらわれるだけでこの街に対する信頼が簡単に崩れてしまう。そしてその不利益を被るのは、われわれ大阪府民みんなだろう。





2016年10月31日月曜日

戦争との距離感

オバマ2期目の大統領選挙戦、あいかわらず流れるようなミシェル・オバマのスピーチを聴きながら、僕の心がスッと離れた瞬間があった。離れたというよりは ショックを受けたという方が正確かもしれない。それは、彼女が夫の業績として、オサマ・ビン・ラディンの暗殺をあげたときだった。そう、彼女は大統領の妻 として、自分の夫が人殺しに成功したことを大々的に宣伝して見せたのだ。

昭恵夫人が安倍首相による人殺しを公衆の面前で自慢する姿など、想像すら出来ない。安倍首相はこの秋の国会で、大統領派と副大統領派が銃を持って殺し合い明らかに戦闘状態にある南スーダンへの自衛隊派遣を正当化するために、戦闘状態にあることを否定せざるを得なかった。戦闘地域に自衛官を送ることすら肯定し 得ない日本と、大統領が暗殺作戦を指揮したことが選挙勝利につながるアメリカ。「価値観を共有する両国」というフレーズが陳腐なのは、あまりにも現実離れ しすぎているからだろう。

今夏、フォーティ・ナイナーズの名クオーターバック、コリン・ケイパニック選手が国歌演奏中に直立せず、跪いていたことを巡ってアメリカでは国論を2分する大論争になった。その際、ケイパニックを支持する側の間で、次のグラフィックが流行った。


左側からは生者たちが声を荒げて「立てケイパニック!兵士たちはお前の“(国歌斉唱に)立つ権利“を守るために死んだんだ!」、つまりアメリカという国を守 るために死んでいった兵士たちに失礼だと罵倒している。それに対して右側から(イラクやアフガンで)命を落とした兵士たちが「いや、実際のところ俺らは彼 の”立たない権利“を守るために死んだんだけど…」と呟いている。
これは要するに、アメリカという国の存在意義は国民1人1人の思想信条の自由を擁護することにあり、その保障は国歌斉唱に対してどのような態度をとるかにも及ぶのだから、ケイパニックに起立を強要する議論は建国の理念に反するという、ケイパニック支持派からの批判である。
しかし僕は、ここでもショックを受けた。要するに、どちら側も兵士たちがアメリカの自由、かの国の憲法の理念を守るために命を懸けているという前提に立っているのだ。
この絵を初見したのは、確かバーニー・サンダース支持Facebookア カウントだった。バーニー・サンダースと言えばイラク戦争が侵略戦争であることを当初から喝破し、開戦に反対した数少ない連邦議会議員。そのバーニーを支 持している人たちにすら「自由のために命を賭した戦士たち」という思考がかくも広がっていることに、ずっと戦争をし続けている国の現実を改めて見せつけら れた。

アメリカは「戦争をする国」だ。憲法も社会も国家体制もそのように出来ている。他方、現在の日本は「戦争をしない国」だ。憲法も社会もそのように出来てい る。この両者の隔たりは、太平洋を挟んだ物理的な距離なんかよりも遙かに大きい。ところが第2次安倍政権は、この距離を一気に縮めようとしている。昨年成 立した新安保法制によって、日本の国家体制は「戦争をしない国」から「戦争をする国」へ変容しつつある。しかし日本社会はその急速な変容にまだ付いてきて いない。アメリカ社会と日本社会はまったく違う。「戦争をする社会」と「戦争をしない社会」は全く違う。その違いに着目することが今ほど大事な時代はな い。




2016年10月27日木曜日

交通事故に遭ったときに一番大事なこと その3〜客観証拠を保存する

「証人がいるんです!」
弁護士に相談したことがある方の中には、こう言った後にそのまま証人の話をスルーされた人もけっこういるんじゃないでしょうか。僕は相談者に消化不良のまま帰っていただくのが大嫌いなので、いつもはっきり言います。

「この国の裁判官は、証言と証人は証拠だと思っていません」

証言が証拠にならないという趣旨ではありません。証言証人が唯一の証拠であれば裁判にはまず勝てない、それに頼るのはあくまで最後の手段であると言いたいのです。

したがって、交通事故に遭ったときも何より大事なのは、事故直後に事故状況を客観的に保存しておくことです。そのためにまずやるべきことは、警察官に来てもらって事故状況を記録してもらうことです。事故の相手から「こんなのは大したことないから警察を呼ぶまでもない」 などと提案されることもありますが、その口車に乗るとまあだいたいえらい目に遭います。その場で警察を呼んでおかなければ、事故状況どころか、交通事故が起きたという事実そのものを証明できなくなってしまうからです。

警察官を呼んで記録を作ってもらえば十分かというと、そうでもありません。警察官にも能力差があるし、彼らが作成してくれるのは最低限の記録なので、後に相手と紛争になったときに警察の資料を取り寄せても自分の言い分をぜんぜん裏付けてくれないということはざらにあります。
なので、双方の車を移動させる前の事故が発生したままの状態の車や周辺の状況、車の破損具合などは自分自身で写真を撮っておいた方が良いでしょう。 トラブル予防という観点では、ドライブレコーダーを車に設置するのが理想的です。

とはいえ、何が裁判や保険会社との交渉で効力を発揮する客観証拠になるうるのかは、なかなか判断がつかないでしょう。だから僕ら弁護士はみな、何にもトラブルになっていなくても交通事故が起きたらとりあえずすぐに相談に来てくれと言うのです。事故直後に何を保存しておかなければならないのか、今後どうなっていくのかだけでも話を聞いておいてほしいのです。

なお、交通事故にありがちなトラブルを分かりやすく紹介した本として、これを超えるものはまだ見たことがありません。著者の弁護士さんとは全く面識がありませんが、交通事故の相談に来られた方にはもれなくこの本を読むことをおすすめしています。

自動車保険金は出ないのがフツー (幻冬舎新書) 加茂隆康著












2016年10月22日土曜日

Like A Rolling Stone

学生時代(90年代)、後輩に教えてもらって知ったボブ・ディラン。一時期、毎日のように聴いていた。
で、表題の名曲ライクアローリングストーン。ノーベル賞受賞を契機にやたら耳にするようになって、英語発音練習の題材としてなかなか面白いなと気付いた次第。

サビの部分、
How does it feel?
僕の耳には「はうだずいっふぃーゆ」と聞こえる。

日米英語学院の高木先生に教えていただいた耳から聞こえたままを平仮名あるいは片仮名で表記し、それを繰り返し発音する練習法はとても有効なんだけど、その前提部分「耳から聞こえたままを書き取る」ことが難しい。この音はこうだという先入観に邪魔されるからだろう。
僕が一番苦労したのがLの音。Rとは違うと分かっていても、どちらも日本語のラ行「らりるれろ」に近い音だという認識をなかなか改められなかったからだ。留学先の発音クラスでインストラクターから「君のR音はそのままでも許容範囲内だけど、L音は聞き取れない」と言われたとき、L音はラ行ではないと割り切ることができた。加えて、schoolなど語尾にL音が来る単語を使うときに聞き取れないと言われることが多きことにも気付いた。

そこで、テレビドラマなどでアメリカ人がschoolfeelをどう発音しているのか確認してみると、前者は「すくーう」後者は「ふぃーゆ」に聞こえる。試しに発話してみると、こっちの方がネイティブの発音に近い。これをきっかけにL音が語尾に来ると、日本語のラ行よりもヤ行に近いと認識を改めた。

T音も多くの日本語話者にとって、なかなかハードルの高い音だろう。L音と同じくT単独つまり日本語には存在しない子音のみの音として現れる単語が多いからだ。TTであって「たちつてと」でもなければ「TaTiTuTeTo」でもない。あえていえば、チッという舌打ちの音が近いだろうか。T単独の音はその難しさを意識しててもなかなかネイティブのような音にはならない。そこで高木先生に教えてもらった方法の応用、単語や文章ごとに日本語でより近い音をさがしてみる。その結果、itのように語尾にTが来る単語がHow does it feelと分の真ん中に入るときは「いっ」、Tをむしろ意識しないことにした。これがitが文末に来ると、例えばWhat is it? なら「わてぃずいっ」、やはりT音を無理に発音しようとはしないけど、舌を上前歯に当てた状態で終えることでT音のニュアンスを出すことにしている。
Tが文頭に来るとさらに難しい。例えばtrain。なんど聞いても音が耳に入ってこない。ネイティブがあの音をどうやって出しているのか、想像もつかない。そこで変則的だけど、ネイティブではなく英語上級者の発音を真似てみる。「ちゅれいん」、こう発音している人が多い。そう、trainは「トレイン」ではなく「チュレイン」の方が近いのだ。

じゃあ、ジャパニーズロックの名曲「トレイントレイン」は「チュレインチュレイン」の方が正しいのか?そんな馬鹿な話はない。「栄光に向かって走るあの列車」は日本語の「トレイン」であって、英語の「train」ではない。英語は英語、日本語は日本語。いずれにせよ、転がり続ける石のように苔の付かないLike A Rolling Stoneな精神が体現された楽曲は、日本語を使ってようが英語を使ってようがいつの時代のものであっても格好いい。





2016年10月20日木曜日

交通事故に遭ったときに一番大事なこと その2〜健康保険を使う

 交通事故被害者の治療費を支払う責任を負っているのは誰か?と尋ねたら、多くの人は「もちろん加害者だ」と答えるでしょう。倫理的、道徳的には正解です。しかし、法律的にはそれは間違いです。
「なんでやねん先生!そんなはずないやろ!?」相談者の方からは毎度毎度そう言われます。正確に言い直しましょう。病院に対して治療費を支払う法律的義務を負っているのは、あくまでその病院で治療を受けている被害者本人です。

怪我をした被害者が治療を申込み、病院がそれを受け入れることによって(病院には受け入れる義務があります)、契約が成立します。契約者は被害者本人とその病院です。多くの場合、加害者の任意保険会社が直接、被害者の指定した医療機関に治療費を支払ってくれます。しかしこれはあくまで保険会社 のサービスの一環であって、保険会社が契約当事者になるわけではありません。そのため、何らかの理由でその保険会社が治療費の支払いをストップした場合、 病院が治療費を請求できる相手は、契約した患者である被害者本人しかありません。

何故ここでこんな「契約」うんぬんと小難しい話をするかというと、「保険会社から一方的に治療費の支払いを打ち切られた」と言って、困って法律事務所に来られる方が多いからです。正直申し上げると、その段階ではもはや打つ手がない場合がほとんどです。
相手方保険会社が払ってくれるからと、それまで自由診療で来ている場合は特に大変です。病院から10割自己負担の、とんでもない金額の請求をされることもあります。その段階で健康保険の使用と病院に伝えれば済む話ではありますが、僕は基本的に事故直後から健康保険もしくは労災保険を使うことをお薦めしています。あくまで治療費を医療機関に対して支払う義務を負っているのは交通事故の被害者なのですから、最初から請求される金額を最小にしておくことによって、後々の経済的リスクを最小化できるからです。

十数年前、弁護士になった当時、先輩から「昔は交通事故には健康保険が使えないと嘘をつく病院もあったんやで」と教えてもらいました。相談者・依頼者の中には自分の健康保険を使うことに抵抗を示す方もおられたので、その都度、健康保険を使った方が得である理由を伝えて、保険診療に切り替えてもらってきました。大阪市内で弁護士をやっていた約8年間、それで医療機関から保険診療への切り替えについて抵抗されたことは、ただの1度もありません。
ところが2012年に今の事務所で執務するようになって以降、あまりにも頻繁に医療機関からの抵抗に遭うので戸惑っています。嘘をついているというよりも、交通事故には健康保険は使えないものと頑迷に思い込んでいる医療機関があるように思います。
 
何度も言いますが、交通事故でも当然に健康保険は使えますし、むしろ使うべきです(ただし、仕事中や通勤途中の事故では労災保険を使った方が良い場合もあります)。「第三者行為届」という書類の提出が必要になりますが、用紙を手に入れて書ける範囲だけ記入し、健康保険団体に提出すればいいだけの話です。
 
僕の経験上、健康保険の使用に抵抗を示す医療機関は概して、治療水準も高くないように感じます。交通事故でも健康保険を使えること、使った方 が患者にとってメリットが大きいことはちょっと調べれば分かることなのにそれをあえてしないということは、その病院は患者のことを親身になって考えない医療機関であるということだと思います。そういう医療機関の医師が、患者のために親身になって治療方針を検討したり、何か新しい治療方法はないものかと論文 を調べたりといったことをするはずもないでしょう。以上が、あくまで私見ですが、健康保険の資料を申し出ることによって医療機関の良し悪しが判断できると僕が考える理由です。



2016年10月16日日曜日

交通事故に遭ったときに一番大事なこと その1〜良い病院を選ぶ

弁護士が交通事故被害者の方から依頼を受けるとき、その仕事内容は損害賠償の請求、つまりお金の回収です。回収できる金額の大きさは被害の大きさに比例するので、後遺症が重くなればなるほど被害者が受け取る金額も大きくなると言えます。しかし、実際のところ後遺症による被害は、お金なんかで補填されるよう なものではありません。後遺症なんてないほうが良いし、あったとしても軽ければ軽いほどいいに決まっています。重い後遺症が残ってたくさんのお金を受け取るよりも、ちゃんと怪我が治って、結果的には相手から取れる賠償金は少なくなる方がよいに決まっています。

ですから、交通事故に被害に遭ったときに一番大事なことは、事故後できるだけ早い段階から良い医療機関で治療を受けること、これに尽きます。当然のことながら私たち弁護士は法律家に過ぎませんから、医療機関の善し悪しについては門外漢です。要するに何が言いたいかというと、法律問題よりも先に大事なことがあるということです。

しかし門外漢とはいえ、仕事柄これまでにたくさんの医師とつきあってきていますし、プライベートでも整形外科医のお世話になった経験が豊富なので(骨折だけでもこれまでに7回やっています)、医療機関の選び方については一家言持っています。

 最も印象的だったのは、今から約20年前、大学で柔道の練習中に右肘の靱帯を伸ばされてしまったときのことです。当時、大学アメフト部の連中がお世話になっていた大川整形外科医院(現在は廃院し、なか整形外科が継承している)を受診したところ、ものの数分で肘の痛みを完全に取り除いてくれたのです。1週間後にギプスを外した後、リハビリを開始しましたが、リハビリの先生方(理学療法士)も皆さんハイレベルで、あっという間に僕の右肘は回復しました。それ まで怪我をしても実家近くの何でも診ている町医者しか行ったことのなかった私には、医療機関によって怪我の治り具合がこうも違うものかと本当に驚きでし た。

保険会社との交渉方法についてアドバイスを求めてこられた相談者の方に対して、「まず病院を変えてください」と助言することも少なくありません。法律事務所に相談に来られた段階では事故にあわれてからかなり時間が経ってしまっていることも多いのですが、それでもより良い治療を受けられるに越したことはあ りませんし、実は医療機関の良し悪しは最終的に得られる補償額にも影響を与えうるからです。そのため事務所に相談に来られた方には、あくまで私見ではありますが、私が信頼している医療機関をご案内することもあります。

個別のクリニック名などをここであげるのはさすがに憚られるので、一般的なことだけ書いておこうと思います(あくまで私見です)。これまでの私の経験からすると、公立病院もしくは公益団体が運営している病院の整形外科が当たり外れが少ないように思います。そういうところの勤務医は概して真面目で勉強熱心 で、そのため最新の治療にも通じており、1人1人の患者のために一生懸命になってくれる人が多いというのが私の感覚です。

また、健康保険を使いたいと言ってみるのも、医療機関の良し悪しを見分ける有効な手段です。「交通事故には健康保険は使えません」という病院は、医療水準も低いと考えてまず間違いありません。その理由については、また今度。



2016年9月5日月曜日

歳をとるのは楽しい

昨日ある芝居を見に行って、「自分は本当に恵まれてるなあ」「歳をとるってホンマに楽しいことやなあ」と思った。
“STRAYDOG”Produce公演 =2016年夏休み特別企画=「問題のない私たち」
http://www.straydog.info/stage/monwata2016.html

今から9年前、友人の成見暁子弁護士に強引に誘われて(本人はそう思ってないだろうが…)関わることになった大阪憲法ミュージカル。「市民出演者100人なんて集まるわけないやん。だいたい大阪でミュージカル観る人なんておるんか?出演者集らんかったら彼女もあきらめるやろ」というのが、実は当初の本音。ふたを開けてみれば100人以上の出演希望者が集まり、嬉しい悲鳴を上げることとなった。

9年経った今、このとき小学生〜大学生だった出演者たちの幾人かが、プロのエンターテイナーとして或いはそれを目指して頑張っている。当時は考えもつかなかったほどSNSが発達したおかげで、彼女たちの奮闘をほぼリアルタイムで知ることが出来る。

彼女たちをここまで育て上げた親御さんたちの苦労は計り知れない。時間的・経済的・精神的にもかなりのエネルギーを割いたことだろう。何より膨大な愛情を注ぐことがなければ、あんな風に他人を魅了する個性は育たない。
そして僕はといえば、そんな苦労を全くすることなく彼女たちのパフォーマンスを観る喜びを享受し、無邪気に自分の子が活躍した気持ちになっている。うちのカミさんが言うように、まさに「子育ての上澄みだけを啜っている」状態。10代20代では考えられない、中年だけが得られる特権だ。

湯浅誠さんの名著「反貧困」(岩波新書)を思い出した。その中におよそ人が貧困に陥るかそうでないかを決める要因として、助けてくれる或いは助けを求められる人のつながりがあるか否かが大きい、その人と人とのつながりを彼は「結」と呼んでいるという下りがあった。昨日の経験は、まさにその「結」だ。9年前、まがりなりにも弁護士仲間たちと市民ミュージカルをプロデュースするという大それたことにチャレンジできる環境があり、そのときに出来た人と人とのつながりがこうしても今も自分1人ではとうてい得られるはずもない喜びを運んできてくれる。

これは、大阪万博の時に建てられたエレベーターもついていない公団住宅がほぼ世界の全てだった小学生時代の自分には、想像することすら叶わない未来だ。いじめっ子や教師はもちろん世の中全てが敵だった中学生の自分にも、社会に出たくないとバブル期特有のピーターパン症候群に苛まれていた高校生の自分にも教えてやりたい。「お前の人生は歳をとればとるほど楽しみが増えていくよ」と。

日々の仕事はけっして楽ではないし、ときには怒鳴り合う夫婦ゲンカもするし、そして自分自身の子育ては絶え間ない悩みと苦労の連続だ。それだけに、それだからこそ「憲法ミュージカルの子どもたち」の輝きが、あちこちガタが来はじめている中年のおっさんの背中を勢いよく押してくれるのは本当に有り難い。

2016年8月6日土曜日

ブロードウェイ俳優の勇気溢れる発言

昨年9月、ブロードウェイ俳優 Kelvin Moon のFacebook投稿が全米を駆け巡った。

彼が出演していたミュージカル「王様と私」の公演中、観客席にいた自閉症の少年が大きな声を上げてしまった。それを迷惑だと感じた観客たちは、何でそんな子を連れてくるんだ、早く連れ出せと母親を非難した。
舞台上からその一部始終を見ていたケルビンは公演直後、Facebookで母親を擁護し、彼女を攻撃した他の観客たちを公然と批判した。いわく、自分のミュージカルは真に「ファミリーフレンドリー」なものであって、 障害を持つ人とその家族を排除することは許されないんだと。

彼の意見に対しては、たくさんの賛否両論が寄せられたようだ。しかし驚くべきは、人気商売である俳優がこういった議論を醸す意見を公開しても、その後も堂々とブロードウェイの舞台に立ち続けていられることだ。観に来てくれたお客さんを出演俳優が公然と批判するなんて、日本であれば一発で俳優生命を失うだろう。しかしこの意見を公表したことで、むしろ彼に対する評価は著しく高まった。

アメリカ社会は日本に比べると信じられないくらい酷いところもたくさんあるけど、こういう言論の自由、ことに芸能人たちの自由度の高さはあちらの社会的寛容度の広さの反映であると思われ、そこが本当に羨ましい。


ケルヴィン・ムーンのFacebookとそれを報じる記事。
https://www.facebook.com/kelvinmoonloh/posts/10104340543612609
http://www.today.com/parents/broadways-kelvin-moon-loh-seeks-compassion-after-child-autism-disrupts-t46416
http://www.dailymail.co.uk/news/article-3249281/Kelvin-Moon-Loh-chastises-King-audience-members-yelled-mother-autistic-child-noise-performance.html

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僕は怒っている。そして哀しんでいる。
ちょうどさっき今日の舞台が終わった。そう、事件はそこで起こった。自閉症の子どもと一緒に来ていたお客さんがいたんだ。

ただし、この話はおそらくあなたが思っているような筋書きにはならない。あなたは僕が今から、静かにしてなきゃいけない芝居に大声を出すような子どもを連れてきた母親を非難し始めると思っているかもしれない。あなたは僕が今から、劇場にその子を連れてきた母親に罵声を浴びせた観客を支持する内容のことを書くと思っているかもしれない。あなたは僕が今から、観客席からの異質な音によって邪魔された同僚俳優たちに対する同情を表明すると思っているかもしれない。

しかしその答えはノーだ。

今度は僕があなたに尋ねたい。私たちが演劇者として、表現者として、そして観客の一員として自分自身のことを気にするばかりに他者に対する共感を失ってしまうのはどんなときだと思いますか?僕にとって劇場は常に、人類の経験を検討分析し、それを我々自身の前で再現してみせる場だ。今日、観客席で起きたことはまぎれもなく現実であり、本来あるべき劇を遮ってしまった。結局のところ劇場とは、エンターテイメントを楽しんで終わりではなく、私たちが劇場から外へ出て日常生活に戻ったときにも背中を押してくれる、そういう場所であるべきだ。

第2幕の最も緊迫する「鞭打ちの場面」、1人の子が観客席で悲鳴を上げた。恐怖の声だ。数日前、自閉症には見えない女の子がやはり同じシーンで悲鳴を上げ大きな声で泣き出したが、そのときは何も起こらなかった。いったい何が違うのだろうか?
彼の声は劇場を貫いた(切り裂いた)。観客たちが母親の元へ押し寄せ、その子を外へ連れ出すように求めた。「何でそんな子を劇場に連れてくるんだ?」と呟く声を、僕は確かに耳にした。これは間違っている。完全なる間違いだ。
だって、あなたはその母親が賢明にその子を外に連れ出そうと努力していたところを見ていないだろう?彼女の息子はそれを嫌がった。手すりを掴んで嫌がる息子を何とか説得して連れ出そうと頑張っている母親の姿を、あなた方は見ていないだろう?僕は見過ごせなかった。芝居を中断してこう叫びたかった。「みんな落ち着けよ。彼女はいま努力してるよ。見たら分かるだろ?彼女はやろうとしてるじゃないか!?」最初から芝居をやり直せって言われれば、喜んでやるよ。返金にも応じるさ。

彼女にとって息子を劇場に連れてくることは勇気がいることだろう。彼女がどんな人生を送ってきたか、あなたは知らない。たぶん、彼が大人しく座っていられて大きな音を立てないような場所を選んでいる限り、彼らは何ら問題ない日々を過ごしていただろう。たぶん彼女は止めることにしたのだ、周りに気を遣いながらおそるおそる暮らすことを、息子にいろんな経験をさせるのをあきらめることを。もしかしたら、今回のようなことが起こることも予測して座席の配置も調べていたかもしれない。あなたが支払ったのと同じ金額を、彼女も息子のために支払っている。彼女の予定では、あなたと同じく、楽しい午後を過ごすはずだったのだ。しかし彼女が最も恐れていた事態が現実のものとなってしまった。
端的に言おう。自閉症者のための特別講演は、劇場をあらゆる人を受け入れる場所にするためにもっともっと開催されるべきだろう。しかし僕はジョセフ・パップのように、そもそも劇場はあらゆる人々のために在るものだと信じている。僕はまぎれもなく「ファミリーフレンドリー」なショーに参加している。ブロードウェイのの「王様と私」は兎に角「ファミリーフレンドリー」なんだ。ここでの「ファミリー」とは、障害を持っていようがいまいが関係なく、すべてのファミリーを意味している。(障害者向けの)特別な公演だけでなく、すべての公演がファミリーフレンドリーなんだ。あなたが観劇しようとしているあらゆる公演が特別公演なんだ。そう、あなたがチケットにいったいいくらのお金をつぎ込んだかなんて、僕は全く意に介さない。


I am angry and sad.
Just got off stage from today's matinee and yes, something happened. Someone brought their autistic child to the theater.
That being said- this post won't go the way you think it will.
You think I will admonish that mother for bringing a child who yelped during a quiet moment in the show. You think I will herald an audience that yelled at this mother for bringing their child to the theater. You think that I will have sympathy for my own company whose performances were disturbed from a foreign sound coming from in front of them.
No.
Instead, I ask you- when did we as theater people, performers and audience members become so concerned with our own experience that we lose compassion for others?
The theater to me has always been a way to examine/dissect the human experience and present it back to ourselves. Today, something very real was happening in the seats and, yes, it interrupted the fantasy that was supposed to be this matinee but ultimately theater is created to bring people together, not just for entertainment, but to enhance our lives when we walk out the door again.

It so happened that during "the whipping scene", a rather intense moment in the second act, a child was heard yelping in the audience. It sounded like terror. Not more than one week earlier, during the same scene, a young girl in the front row- seemingly not autistic screamed and cried loudly and no one said anything then. How is this any different?
His voice pierced the theater. The audience started to rally against the mother and her child to be removed. I heard murmurs of "why would you bring a child like that to the theater?". This is wrong. Plainly wrong.
Because what you didn't see was a mother desperately trying to do just that. But her son was not compliant. What they didn't see was a mother desperately pleading with her child as he gripped the railing refusing- yelping more out of defiance. I could not look away. I wanted to scream and stop the show and say- "EVERYONE RELAX. SHE IS TRYING. CAN YOU NOT SEE THAT SHE IS TRYING???!!!!" I will gladly do the entire performance over again. Refund any ticket because-

For her to bring her child to the theater is brave. You don't know what her life is like. Perhaps, they have great days where he can sit still and not make much noise because this is a rare occurrence. Perhaps she chooses to no longer live in fear, and refuses to compromise the experience of her child. Maybe she scouted the aisle seat for a very popular show in case such an episode would occur. She paid the same price to see the show as you did for her family. Her plan, as was yours, was to have an enjoyable afternoon at the theater and slowly her worst fears came true.
I leave you with this- Shows that have special performances for autistic audiences should be commended for their efforts to make theater inclusive for all audiences. I believe like Joseph Papp that theater is created for all people. I stand by that and also for once, I am in a show that is completely FAMILY FRIENDLY. The King and I on Broadway is just that- FAMILY FRIENDLY- and that means entire families- with disabilities or not. Not only for special performances but for all performances. A night at the theater is special on any night you get to go.And no, I don't care how much you spent on the tickets.


2016年8月2日火曜日

日本と外国と柔道と柔術

AFP通信
「日本の精神」を学んでブラジル柔道を強化、仏出身のメディさん
http://www.afpbb.com/articles/-/3094597?act=all

「100年以上前に日本で生まれた柔道では、規律や礼儀、上下関係を重視する。無法と隣り合わせの奔放さを持つブラジルの文化とは、まったく相容れないといってもいい世界だ。」

僕がちょっとだけ通っていたラルフ・グレイシー柔術アカデミーではみんなそこそこ礼儀正しかったので、これはちょっと意外。アメリカとブラジルでけっこう差があるのか?それとも同じブラジルでも柔術と柔道でも文化が違うのか。

ラルフ・グレイシーでは柔道と柔術のクラス両方に顔を出してたけど挨拶の作法なんかが微妙に違ってて、柔道の方がやはり日本風で少し堅苦しかった。インストラクターは同じ人だったりするから、時間によって作法が変わるのが妙に面白かった。

柔術の練習中にいちど「我々はみんな対等だけどインストラクター側はより多くの経験を積み重ねているのだから一定のリスペクトを持った態度で接するように」との注意があった。叱るような口調ではなく実にフラットな言い方で、その瞬間に道場内に「なるほど。そらそうだよな」という雰囲気が流れた。指導者を敬って当然で済ますのではなく、こういうことをきちんと言葉にして説明するところに感銘を受けた。
他方で、彼らインストラクターは生徒に自分たちをファーストネームで呼ばせる。会話に敬語を使うこともない。生徒同士も互いの年齢のことは全く気にしない。みんながみんな互いの人格を尊重し、礼を尽くす。フランクさと礼儀正しさは両立することをここで学んだ。

指導者や目上の者が無条件に偉い日本社会よりむしろ、そういったしがらみのない外国の方が、対戦相手や練習相手を尊重する武道の真髄が現れやすいのかもしれない。そしてそれは、道場内の全員が全員と握手をしながらお礼を言って練習を終えるブラジリアン柔術の作法に端的に現れているように思う。


2016年7月16日土曜日

トルコのクーデター

夜間学校英語クラスのクラスメイトだったトルコ人女性は、2歳の男の子のお母さんで元小学校教師。夫が地震学者でバークレーに来る前は東北大学に留学していたので、311は仙台で被災している。彼女は日本語が堪能だったけど互いに英語が苦手だったから、僕らはいつも頑張って英語で会話するようにしていた。

彼女が小学校で教師をしていたとき、トルコ政府は学校内でヒジャブの着用を禁じる法律を制定した。やむをえず髪の毛をさらして初めて教壇に立った日、彼女は職員室に帰ってから泣いたという。
物心ついたときから人前に出るときはヒジャブを被っていた彼女にとっては、下着姿或いは裸で人前に出るようなものだったのだろうか。それでも子どもたちの前ではけっして泣かなかったところが、彼女の教師としての矜持だったのだろう。
いつも彼女と一緒にいた親友は、ヒジャブを一切被らないテキスタイル・エンジニア。そういう多文化他宗教の寛容性を持った国がトルコだと思っていたし、当時ちょうどクルドとの停戦協定が成った直後でこれから良い方向に進むと思っていただけに、怪しい方向に進むトルコの現実に驚いた。

イスラム国(IS)の台頭後、シリアとの関わり方を巡ってロシアとも事実上の戦争状態となったトルコ。あこがれの国は気軽に観光目的で訪問できる場所ではなくなったように見える。そこでとどめを刺すかのような今回のクーデター。強権的すぎるエルドラン大統領の政策には何一つ賛同できるところはなく常々はやく退陣すればいいのにと思っていたけど、軍部のクーデターでひっくり返るのは最悪。今回ばかりは何とか乗り切ってほしい。戦車の前に身を挺して立ちふさがる、トルコの人々を支持します。

BBC
http://www.bbc.com/news/live/world-europe-36811357

アルジャジーラ
http://www.aljazeera.com/news/2016/07/turkey-prime-minister-coup-attempt-foiled-160716001125028.html

2016年7月15日金曜日

「翻訳できない世界のことば」


我々の話している日本語とは発想も表現も全く異なる、とてつもなく美しい言語がこの国にあることを教科書で知り、アイヌ文化に憧れた。中学のときだったか高校のときだったか定かでないけど、特定の月明かりだけを形容する同じように美しいスウェーデン語に触れて、その時のことを思い出した。


そうか、ぼけーっと何にも考えてない状態を形容する言葉は他国の人にとってユニークなのか。明治維新以降だけ見ると常に忙しく立ち回ってるのが日本人の性のように思えるけど、もしかしたら数千年に及ぶ日本語が形成されてきた時間の中では、むしろ今のような時代の方が例外なのかもしれない。


以前のブログにも書いたけど、言語と言語は基本的に互換性がない。翻訳する過程でどうしても原語のニュアンスがこぼれ落ちてしまう。だからこそ、いつも未知の文化に誘ってくれる他言語学習は何とも魅力的で楽しい。その楽しさが素敵なイラストとともにパンパンに詰まったこの本の中でも、僕が一番惹かれたのはこのフィンランド語poronkusema。


トナカイが休憩なしで疲れず移動できる距離を一言で言い表す、そんな言葉を持ちながら暮らしている人たちがこの地球上にいることを想像するだけで胸がときめいてしまうのです。









2016年7月9日土曜日

自衛隊員の命を守る野党(維新除く)への1票

今回選挙の最大争点が、自民公明維新の改憲勢力が改憲発議に必要な3分の2議席を獲得するかどうかであることは間違いないでしょう。
しかし僕は、昨年成立した安保法制がこのまま運用されるに至るのか、それともここで歯止めがかかるのかという点もその次に大事な争点だと考えています。
その点に関して言えば、その時々の政権与党の政治的判断のためには自衛隊員が命を犠牲にするのはやむなしと考える人は自民公明維新に、自衛隊員が命をかけるのは国民を守るためだけであるべしという人は民進共産社民生活の4野党を選ぶべきです。

安保法制に関しては賛成だろうが反対だろうがいろいろ意見を言う前に、まずは実物を見てほしいと、いつも声を大にして言っています。実物と言っても、内閣官房がHPに上げてくれているこの新旧対照表を見るだけでいいのです。
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/sinkyuu-heiwaanzenhouseiseibihou.pdf
今回の安保法制で改正した部分に線が引いてあります。最初は全部に目を通すのはしんどいでしょうから、下部の旧法欄に(新設)と書いてある条項をチェックしていくだけでも十分です。
(新設)と書いてあるところは文字通り、今回の安保法制で新しく付け加えられた条項、平たく言えば自衛隊の新たな任務です。そしてこれをずーとチェックしていけば、日本を守るための新設条項はただの一つもないことに誰でも気がつくはずです。この安保法制で新たに自衛隊に課された任務は一つ残らず全て日本とその周辺地域を離れた場所での任務です。

そして、唯一の新法である国際平和協力支援法はこちら。
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/anbun-kokusaiheiwasienhou.pdf
こっちはただの法文なので読みにくいでしょうが、とりあえず3条と別表だけ見れば全容が分かります。要するに「国際共同対処事態に際し」「外国の軍隊その他これに類する組織」への支援行動を自衛隊に課す法律です。

テレビのインタビューでこの安保法制によって日本の安全保障は向上するという立場の田母神俊雄さんも、安倍首相の説明はおかしいと言っていました。安倍さんが「自衛隊員のリスクも増えないし、日本の安全性も向上する」と言っていたのに対し、田母神さんは「自衛隊員のリスクは上がるが、その代わり日本の安全は向上するというべきだ」とおっしゃっていました。
この新制度で日本の安全が向上するかどうかは議論の余地があるところですが、自衛隊員のリスクが高まることは間違いありません。海外の紛争地での任務を大幅拡大するものなのだから、このことは法文上明らかです。だから、仮に安保法制に賛成するなら、自衛隊員の方たちに「どうか私たちの安全のために海外の紛争地で命を犠牲にして下さい。その代わり、あなたが亡くなったときの遺族補償や怪我して帰ってきたときの補償はきちんと責任を持ちますから」と頭を下げるべきなのです。

そしてこの「安全保障外交のために兵士の命を犠牲にする」政策をとってきたのが日本以外の西側先進諸国であり、その代表がアメリカとともにアフガン・イラクに攻め込んだイギリスと言って良いでしょう。そのイギリスの独立調査員会は先日、イラク戦争は不必要不適切な戦争だったとの調査結果を発表しました。そして、その発表を受けて亡くなった兵士たちの遺族は、自分の愛する人が犬死にさせられたことを知って悲嘆に暮れています。
http://edition.cnn.com/2016/07/06/europe/uk-iraq-inquiry-chilcot-report/index.html

イギリスが経験した取り返しのつかない過ちを日本にもたどらせるための法律が、この新安保法制です。この法律を通した自民公明はもちろん、おおさか維新も集団的自衛権行使にのみ手続要件加重を求めているだけで、紛争地での任務を拡大すること自体には全く反対していません。
https://o-ishin.jp/election/sangiin2016/pdf/manifest_detail.pdf
したがって自衛隊員やその家族の方、自衛隊員を無駄死にさせたくないという人は今回すべからく、4野党に投票すべきです。自衛隊員ひとりひとりの命を守るのは、わたしたちの1票です。

2016年6月16日木曜日

子どもの可能性と保育士さん

いまから十数年前、大阪府内の児童養護施設で二泊三日の研修を受けさせてもらいました。初日、配属された寮の保育士さんに何をすればいいのか尋ねたところ「子ども達と遊んで下さい」。そんなんだけでいいんですか?と聞き返したら、自分たち職員はいろんな仕事で忙しくて遊んでやれないので研修に来た人にはとことん子ども達と遊んでやってもらうことにしている、施設の子ども達は大人に自分に目を向けてもらえる機会を欲しているし、次から次にいろんな大人が日替わりで来ることにも慣れているからと説明されました。
二日目、夏休みの午前中は宿題の時間。学習障害(LD)を持った小学3年生の子を見てくれと言われました。まずは音読。低学年の子たちからの中傷は聞こえないふりをしつつ、ルビのない漢字が出て来るたびにつまりながら頑張ります。次は計算ドリル。指を使いながらも最初は順調。でも繰り上がり算になると、なかなか出来ません。僕も何をどうしたらいいのか全く分からない。とうとう本人は辛くて泣き出してしまいました。そこへ登場した寮の保育士さん、本人からやり遂げた宿題の内容を聞き出すと、いきなりガバッと抱きしめて持ち上げ、ジャイアントスイングのようにぐるぐる回りながら「すごいなあ!めっちゃ頑張ったなあ!」。
保育士っていうのは子どもに愛情を与え、それを表現するプロフェッショナルなんだということを僕が理解した瞬間です。
その子にせがまれ、キャッチボールをすることになりました。その地域は野球が盛んで、町会の大人たちが施設のこども達も熱心に指導してます。その子がピッチャーとして活躍しているという話は聞いてたけど、実際に見てびっくり。地面近くまで腰を深く沈み込ませ、全身をムチのようにしならせながら、とても小学生とは思えない美しいフォームで投げ込んできます。その球はグググッと目の前で伸びて来るので、運動音痴の僕には全く捕球できません。隣の寮で研修を受けてた同期の原に助けを求め、替わってもらいます。ボールを受けながら原も「お前、すごいな!」と感嘆してました。どんな子でもその子に合った適切な教育を受ければ発達できる、それを机上の理屈ではなく、まざまざと見せつけられて目の前が開けていくような感覚があったことを覚えています。

2016年6月9日木曜日

この時代に生まれて〜「無音のレクイエム」

この時代に生まれて 声を上げずにいるのなら
この時代に生まれた 子どもたちに何を誇るのか

脚本家の小鉢誠治さんが書き下ろしたこの歌詞が、アメリカの思想家ノーム・チョムスキーの言葉と重なる。「アメリカでは独裁権力下で暮らす人々のように政権批判をしたからといって投獄されたり殺されたりすることもないのに、なぜ言うべきことを言わないのか!?」

憲兵役を演じた篠原さん(篠原俊一弁護士)いわく、「彼(憲兵)はそれが正しいと思って自分の仕事をしただけ」。映画「白バラの祈り」でナチスの検察官を怪演した俳優もインタビューで全く同じことを言っていた。「彼は自分の仕事をしただけ」。

「Ordinary Men」(普通の人々)という本がある。残虐行為を行ったナチス兵士たちが、けっして特別な悪人だったわけではなく、あくまで普通の人々だったことを論証した本だ。

映画「スイングキッズ」では、ナチスが青少年期特有の自己肯定感の低さにつけ込んで、思想的に取り込んでいく手口が描かれている。権力者が自分自身に対する批判から目をそらさせ、自らの利益を確保するためにヘイトスピーチが極めて効率的であることは、残念ながらユーゴ紛争でも再実証されてしまった。

どの街にどんな境遇で生まれた子であれ、すべからく自分がまぎれもなく大切な存在だという自己肯定感に満ちた日々を送る、それがこの大阪で実現可能だと教えてくれたドキュメンタリー「みんなの学校」。木村泰子校長は言う。「全ての子に学習権を保障したいねん。学習権を保障するいうのは全ての子ひとりひとりに居場所があるいうことや」。

在米中にうちの子が通っていたプリスクールがまさにそれで、一人ひとりの個性、自主性を何よりも大切にしていた。正門には大きく"Education for Peace"と掲げている。自分を大切にする子たちは他の人たちも大切に出来る。

個人の尊重という思想は、アメリカ憲法の誕生によって単なる思想から法制度に進化した。その根本理念を受け継ぎそれをさらに進化させた日本国憲法は、国内外における未曾有の戦渦を経て誕生した。

この時代に生まれて 声を上げずにいるのなら
この時代に生まれた 子どもたちに何を誇るのか

制作上演に100人以上の出演者スタッフが関わり、3000人弱のお客さんに観劇された大阪憲法ミュージカル2016「無音のレクイエム」。その問題提起はどこまでひろがっただろうか、広がるだろうか。
http://osaka-musical.webnode.jp/


2016年4月5日火曜日

英語は難しい、それを受け入れるところから上達は始まる

語学堪能なある大学教授から、こんなエピソードを聞いたことがある。外国から来た友人を観光案内していたところ、「あれは何て言うんだ」と尋ねられた。それで答えたところ友人は「いや、日本語で何て言うのか知りたいんだ」。それに対してその教授は「いやだから、いま日本語で答えたよ」。台湾や韓国から人を迎えることの多い彼は、こんなことを何度か経験していると言っていた。僕らがそうと気付いていないだけで、日本語にはもともと古代中国語だった言葉がたくさんあるから、かつて同じく中国文化圏だった地域の言語(特に名詞)にはほぼ同じ音の単語があるので、こういうことが起こるらしい。

同じようなことは英語とその他のヨーロッパ言語との間にもある。英語は古来のアングロサクソン民族の言葉も残っているとはいえ、ヨーロッパ大陸の言葉、フランス語やラテン語の影響をかなり受けている(というか、むしろそっちが現代英語のベースになっているらしい)。ESLクラスの授業で講師がスペイン語圏やフランス語圏の生徒のために、語源が同じでスペルも共通しているけど英語では意味が転じて逆の意味になっている単語を書き出したことがあった。これはつまり、それ以外の多くの単語は読み方が違うだけで英語でもフランス語でもスペイン語でも同じ意味のまま共有されているということだ。
そして何といってもこれらの国々はキリスト教文化圏だ。アメリカですら本を読んだりドラマを観たりしていると、聖書のエピソードやラテン語の格言がたびたび登場する。ロシア語通訳の米原万里さんも最低限のラテン語教養がないとヨーロッパ言語の通訳は務まらないと書いていたが、日本語話者にとってはロシア語でも英語でもその壁は同じだ。

地理的に近く歴史的に文化的背景を共有している地域の言語同士は、単語そのものが共通していることも多く、言葉や文章を構築する文化的基盤も共有しているところがある。ところが日本語と英語との間には、そういうところが全くない。互いに外来語として輸入した単語はあるが、それはごくわずかな例外に過ぎない。それゆえスペイン語やドイツ語、ポルトガル語などヨーロッパに起源を持つ言語を母語にする人たちに比べて、日本語を母語とする人間が英語を習得することのハードルは比較にならないほど高くなる。

英語と日本語では、まず語順が違う、文法構造が全く違う、次に音が違う、発音発話方法が全く違う、そして語源も文化的背景も共有していない。要するに、共通点が何にもないわけだ。これで日本語話者が英語を「簡単に」「短期間に」習得できたら、むしろその方がおかしいだろう。われわれ日本語話者がそんなに簡単に英語を使いこなせるようになるのなら、バベルの塔にキレた神が世界の言語をバラバラにした甲斐がなくなってしまう。

英語習得が難しい理由を整理したら絶望的な気分になるかといえば、実はそうではない。ここを直視せずにやみくもに非科学的な学習を繰り返すから効率が悪くてなかなか上達しなくて、しまいに嫌になっていつまで経っても英語が話せるようにならない。逆に難しい原因が分かれば、その対策を一つずつとっていけばいいだけになる。
以前にも紹介したアルクの入門教材、伊藤サム元ジャパン・タイムズ編集長のテキスト、高木先生(日米英語学院)のメソッドなどはいずれも、こういった日本語話者特有の困難を突破するために作られている。けど僕はそれらの優れたテキストやメソッドにも増して、英語字幕で英語圏の映画やドラマを繰り返し観ることが日本語話者が英語を習得するために効率的な学習法だと確信している。
その話はいずれまた、機会を改めて。


2016年3月29日火曜日

英語は聞き取れなくて当たり前

日本語と英語では発音や発話の方法が全然違うことも、日本語話者がなかなか英語を聞き取れるようにならないことの一因だろう。
まず日本語の50音と英語のアルファベットでは音が全然違うし、何より子音だけの音が日本語にはないものだから、これを聞いたり発話したりできるようになるのが難しい。
例えば、英語のtは日本語の「た(ta)ち(ti)つ(tsu)て(te)と(to)」のどれとも違う。tはあくまでtの音だ。それゆえ、子音だけの音を発音できるように意識して練習することが、リスニング力向上の近道だと思う。

なかでも難しいのが、thのように日本語には近いものが全くない音。thは舌を突き出し、上下の歯で挟んだ状態で空気を吐き出す音。その理屈は知っている。しかしふだん日本語で生活している限り口や舌をそんなふうに動かすことはないので、いざやろうとしても簡単にはできない。舌や口の周りの筋肉がそういう動きをするようになっていないからだ。最近「英語の筋肉」という言葉は学習書にもよく登場するようになっていて、その理屈は知っていた。しかし渡米した当初の僕にはまだ、覚悟が足りていなかった。

そんな僕を変えてくれたのは、これまたBig Bang TheoryでKerry Cuocoが演じるヒロインPennyだった。彼女が他の登場人物たちにキレて”You are pathetic!!”と怒鳴りつけるシーンがある。カメラはその横顔を映している。patheticのthを発音するとき彼女の舌は、音を消して観たら「あっかんべー」をしてるんじゃないかと思うくらい、歯の間から思い切り突き出されている。英語を話せるようになるためには、ここまでしっかりと舌や口角を動かさないといけないんだと、このとき覚悟が決まった。

thに関して、もう一つ印象に残っているシーンがある。Leonardから南極土産をもらったもののそれが何か分からなくて愛想笑いした後、Pennyが発するセリフ”What is this?”。カメラアングルは彼女の正面。最後のsは本来なら下前歯の裏に舌先を押し当てて息を吐く音。しかしこのシーンで彼女はthiで舌を付きだした後、舌先を歯の中に完全には引っ込めずに下前歯の上に舌先を載せたまま、口を半開きにしてsを発音してセリフを言い終えている。Pennyのアホっぽさを演出するために口を半開きにしてセリフを言い終えたという面もあるだろうけど、thisあるいはWhat is this?を発話するための下と口の動きがよく分かるシーンだったので、繰り返しこのセリフを真似するようになった。

英語特有の音の崩れ、英語にはリエゾンとリダクションがあるのがまた難儀だ。日本語にも音の変化や崩れがあるらしいが(知人の英語教師に教えてもらったけど具体例は忘れた。「ダーリンは外国人」にも同じようなことを書いてたように思う)、その程度がまったく違う。例えば、Whatはワット、 canはキャン、 Iはアイ、 getはゲット、 youはユウだと仮定すると、日本語の発話方法ならそれらをつなげただけ「ワット・キャン・アイ・ゲット・ユウ」で問題ないはず。ところが英語では前の単語の最後の音と後ろの単語の最初の音が連結して音の崩れが生じるので、What can I get youは日本語話者の耳には「ワッキャナイゲッチュウ」と聞こえる。世界の言語には日本語や韓国語あるいはドイツ語のように単語を一つずつ区切って発話する言語と、英語のように一連の文章としてつなげて発話する言語に分けられるそうだ。それぞれをカテゴライズする概念を大学時代に習った気がするが、理屈がなんであれ、日本語話者の耳では自然には英語を聞き取れるようにはならない。

アルクの入門用教材でリエゾンのことを知って、最初はパターンを覚えようとした。しかしほぼ無限にあるパターンを全て覚えることなど出来るはずがない。結局、自分でしゃべるときも自然にリエゾン・リダクションが起こるところまで発音練習を積み重ねることが一番近道なんだと思う。ただし、スポーツでも語学でも何でも、自分でトレーニング方法を考案できる中級者レベルまで達することが一番困難。その点、自分が受けてきたトレーニングの中では日米英語学院の高木先生のLinking&Reductionメソッド、使用頻度の高い英文を耳から聞こえるままにカタカナ表記して、それがスムーズに出てくるようになるまで繰り返すことが最も効率的だったと思う。

次回は日本語話者にとって英語が難しい3つめの理由、語源その他文化的背景の壁について。






2016年3月22日火曜日

英語が難しい理由

いま巷では簡単に、あるいは短期間に英語を身に付けられることを謳う本や教材が溢れている。しかし、英語習得は日本語話者には難しい、この動かしがたい事実を直視することこそが上達への近道だというのが僕の持論。

なぜ英語習得は日本語を母語とする者にとって難しいのか。それは文法、発音発話、語源その他文化的背景、言語を構成する全ての要素において日本語と英語は全く違う、というかむしろ真逆だから。

日本語と英語では文法構造が全く違うこと、これが最大のネック。英語では主語の次に動詞が来る、これによりリスニングも難しくなるけど何より話すこと=スピーキングの障害がものすごく大きくなる。主語の次に動詞や助動詞が来る発想に頭を切り換えるのは本当に大変なことで、「思ったことが話せない」というのは日本語話者にとって当たり前のこと。語順が違うと単に単語の並び方が違うにとどまらず、表現を練り上げるときの発想が根本的に違ってくる。そのため日本語話者は、前のブログにも書いたように、意味の似た単語を変換させていくのではなく「英語話者ならどう言うか?」と発想を完全に切り替えなくてはならなくなる。

英語学校でクラスメイトだったトルコ人女性とこの話題で盛り上がったことがある。彼女に教えてもらって初めて知ったけど、トルコ語も日本語と同じ文法構造らしい。そのためトルコは現在では筆記文字としてアルファベットを導入しているが、やはり英語のスピーキングが苦手だと言っていた。ちなみに彼女は夫の仕事の関係でしばらく仙台に住んでいたため、日本語は堪能だった。

これに対して英語と同じ文法構造を持つ言語、例えばドイツ語やスペイン語圏の人々は、英単語を暗記して母語と入れ替えていくだけで英語をしゃべれるようになるようだ。想像に過ぎないけど、中国標準語を母語とする人たちも英語習得にはそんなに苦労していないんじゃないだろうか。
主語→動詞→目的語という語順が同じなら、自分の母語と近い英単語をチョイスして入れ替えていくだけで、だいたい言いたいことは言えるのだろう。移民を主たる対象としているバークレー市アダルトスクールのESLクラスに来ている生徒には、けっこう流暢に英語を話すわりにライティングや文法が苦手な人も少なくなかった。スペイン語などを母語とする彼らにとっては、日常生活で多用することもあり、スピーキングが最も自然に身につけられる英語能力なのかもしれない。

僕ら日本語話者は、日本語と語順が同じ外国語であれば、きっと英語ほどには苦労せず習得できるのだろう。例えば、朝鮮韓国語やトルコ語、ビルマ語など。そう考えると、大英帝国に成り代わって世界を支配する国がアメリカではなく、せめて日本語と同じ語順を母語とする国であれば良かったのになどと不埒なことも考えてしまう。残念ながら、そんな夢想をしていても英語はいっこうに上達しない。

次回は2つめの理由、発音発話の壁について。

2016年3月15日火曜日

This photo almost kills me with sadness.

http://www.bbc.com/news/blogs-trending-32121732

カメラを向けられた途端、両手を挙げたシリア難民の少女。
パレスチナ(ガザ)のジャーナリストによって英語でツイートされたこの写真。1万回以上もリツイートされたものの、説明がなかったがためにガセじゃないか と批判も集中したとのこと。そこでイギリスBBCが追跡調査した結果、元ネタはトルコの新聞でありガセではなかったことが判明したとの記事。
BBCのジャーナリスト魂に感嘆するとともに、こんな4歳児が無数にいるのだと思うと胸がつぶれそうになります。

2016年3月11日金曜日

「英語で何て言うの?」をやめる

「Rちゃんのパパぁ!みてぇ!どろだんごつくってん!」
保育園でこういう場面に出くわすたび脳裏に浮かぶ言葉は、”That's so sweet.”

直訳すれば「めっちゃかわいい」といったところか。しかし英語のsweetと日本語の「かわいい」ではニュアンスが違う。例えば、女性が彼氏からプレゼントをもらって"That's so sweet!"って言うシーンを、アメリカのTVドラマでよく見かける。この場面で女性がsweetと形容してるのは、プレゼントを用意してくれた彼氏の行為そのものだ。大人が大人にしてもらった行為を日本では「かわいい」とは言わないから、この場面のsweetは「かわいい」とは訳せない。

「かわいい」と訳しうる英単語はcute, adorable, beautiful, prettyなど他にもあるが、それぞれ使う場面とニュアンスが異なる。その違いを見分けるのが非ネイティヴには難しいが、地道に学ぶしかない。

例えばcuteは大人が子どもを「かわいい」と言うときにも使うが、女性が男性の容姿を褒めるときに使われることが多いように思う(一度だけ女性に言われて有頂天になった)。逆に男性が女性に使うのは、今のところは見たことがないが、映画「ミルク」の中でゲイの男性が同じくゲイの男性に対して使っていた。

adorableは小さい子どもに対してよく使われる。僕の中では「可愛らしい」と変換されることが多い。でも米コメディBig Bang Theory中、今から紹介してもらえる女性はHOTであってほしいと言うハワードに対し、ペニーが冷たく"She is adorable."と言い捨てるシーンがある。可愛らしい人に対してなら大人の女性にもadorableは使って良いのだろう。

日本では「かわいい」に相当する英単語といえば、真っ先にprettyが出てくることが多いように思う。しかし僕自身は、この言葉が人を形容するのに使われた場面を1度も見聞きしたことがない。「かわいい」という意味で使われてるのですら、ペニーが衝動買いしてしまった高価な靴に"pretty, pretty, pretty"と呟いているのが唯一だ。

CaliforniaのBerkeleyに住んでいたとき、子連れで歩いているときやバスに乗っているときによく言われたのがbeautiful。あちらには子どもを日本語で言うところの「美しい」と形容する文化があるのかもしれないが、へちゃっとした典型的なモンゴロイド顔の甥っ子を抱っこしてても言われたので、beautifulには「かわいい」というニュアンスもあるのだと思う。
カミさんが子どもを連れて歩いていたとき、前方から奥さんと一緒に歩いてきた老紳士がしゃがみ込み、うちの子に向かって”You are so beautiful. Yes, you are.”と言って去って行ったことがあった。カミさんからの又聞きではあるがいかにもカリフォルニアらしいエピソードであるとともに、アメリカ人はこういう表現をするのかと強く印象に残っている。

地方出身者なら、他の地方の人に自分の地元特有の言葉を説明しようとしてできなかった経験が、一度はあるだろう。そのまま当てはまる言葉が標準語にないからだ。例えば「いちびり」。お調子者でくだらないことを繰り返す者を指す関西の方言で、その対象を見下すニュアンスがある。これにずばり対応する名詞は日本語標準語にはない。だから標準語には直訳はできない。「それ標準語では何て言うの?」という質問は成り立たない。

日本語同士でもそうなのだから、日本語と英語ならなおさらだ。「それを英語にしたらどう言うの?」という思考は、その発想からして間違っている。「英語にする」ことのできる日本語なんてほとんど存在しない、日本語にばっちり対応する英語なんてあり得ないと思った方がいい。

この日本語を英語にそのまま変換しようとする思考を捨て去ることは、中学校入学以来ずっとそうして来た僕には、なかなか難しい作業だった。しかし「英語に直す」のを止めて、「この場面でこういう趣旨のことを言いたい時アメリカ人ならどういうだろう?」と思考方法を変えてから、上達のスピードがずいぶん上がった感覚がある。
例えば「いくら何でも政治家がこんな馬鹿なツイートをするはずがない」を英語にするとどうなるか?直訳するなら”Politicians must not tweet such a foolish comment.”といったところだろうか。これに対して僕が「アメリカ人ならこう表現するんじゃないか」と考えた上で選んだのはこれ。

”No politician was supposed to tweet such a ridiculous comment. ”

もちろんこれが正解である、ネイティブの感覚に近いという自信はない。そこまでの英語力が自分にあるとはうぬぼれていない。でも大事なことは、単語を一つずつ置き換える悪しき受験勉強的思考を止めて、全く言語発想が異なる英語話者の立場に想像を巡らせる作業を地道に続けることだと思っている。ニュースやドラマを見てても、この「アメリカ人なら?」(「イギリス人なら?」「フィリピン人なら?」でもOK)という思考訓練を続けていると、「なるほど。こういう場面で英語ネイティブはこういう表現を使うのか!?」と気付く機会が徐々に増えてきた実感がある。

日本語と英語は単語レベルでも文章レベルでも本来互換性がない、こう割り切ったころから英語力は本格的に伸び始めるものだと思う。






2016年3月8日火曜日

サウジ初の女性政治家 地方議会選で選出

http://www.bbc.com/japanese/35089901
BBCニュース日本版より

とある英語学校に通っていたとき、クラスメイトの約半数はなぜか、サウジアラビアからの若い学生たちだった。さらにその半数は既婚者子持ちの女性 で、夫の留学に伴って渡米してきたとのことだけど、みな一様に最低でも修士号とグリーンカード、できれば博士号とアメリカ国籍を取得して帰りたいと言って いた。途上国の出身者ならともかく、経済的に発達しているサウジの子たちがあんなにも野心的であることに驚いた。ヒジャブを被ってて全身黒ずくめで、時間 になったら廊下にマットを敷いてお祈りしてと見た目は保守的なんだけど「夫を支えるために」って感じの人はいなかった。

クラスで家族についてディスカッションしたとき、あるサウジの子が「夫がもう何人か子どもがほしいと言ってるけど、家事も育児もほとんど何もできへんくせ に何言うてんねん!生まれた子供の世話は誰がするおもてんねん!アホか!?」とまくし立てたら、イタリア人女性が「そうそう、うちの夫も子どもでサッカー チーム作りたいとかぬかしとおる!頭おかしいんちゃうか!?」と大盛り上がりし、僕ともう1人の日本人男性は黙ったまま小さくなって座ってたこともあった。

1人だけヒジャブを被っていない女子学生がいた。格好も民族衣装ではなく洋服の普段着だ。大家族の末っ子で、女性だからと特別視しない父親の下、自由闊達 に育ってきたらしい。スキニーデニムを買ったんだと嬉しそうに話していた。サウジでは体のラインが出るような格好で女性が外に出るのは禁止されているか ら、当然のことながらスキニーパンツを履いての外出は違法。自由な気風の自宅内とそれと真逆のサウジ社会との間でストレスを感じながら暮らしてきたこと が、彼女の話の端々から感じられた。

  朗らかで、とても知性とユーモアに富んだ人で、彼女の話はいつも面白楽しかった。最も印象に残っているのは、彼女の友だちで一番の美人がお見合いをした 話。家族以外の男性に素顔をさらしてはいけないという慣習に基づき、奥ゆかしいその友人はお見合いのときも顔を隠していた。そのため見合い相手の男性はそ の大人しいキャラからつまらない女だと判断し、結婚を断ったとのこと。彼女はその男性のことを「すごい美女と結婚するチャンスを逃したアホな男だ。アイツ は本当にアホだ」と罵っていたけど、「外見がまったく分からないんだから仕方ないよね」と僕はその男性に少し同情した。

以来、1度も行ったことのないサウジアラビアで暮らす人たちに、何となく親近感を感じている。選挙権が法律上認められたとはいえ、女性が投票することが実 質的にいろいろと制限されていたらしく、かなりの男性票も獲得しないと当選しないと言われていた選挙で、しかも女性選挙権が初めて認められた選挙で、数人 とはいえ複数人の女性当選者が出たのはなかなかの快挙なんじゃなかろうか。願わくば、元クラスメイトたちがあの素晴らしい個性を自由に発揮できる社会へと 一気呵成に向かっていくきっかけに、今回の選挙がなってほしいと思う。

2016年3月4日金曜日

教育を受ける権利、学習権について

「午前中に自分の膝の上に座らせて本を読んであげた生徒が、その日の午後に亡くなったことがある」特別支援学校を訪問した際に、校長先生から聞かせてもらったお話。

たとえ近日中に亡くなることがわかっていても子どもには亡くなるその瞬間まで学習権がある、子どもの学習権は未来の大人を作るためだけのものではない、なぜなら学習権は人権だから。先の校長先生の体験を聞いたとき、専門家を自認していながらそんな当たり前のことに認識してなかった自分に気付いて、思わず赤面した。

ある文科相官僚にこの話をしたところ、
「確かにそうだね。例えば不法滞在で親とともに強制送還される子どもがいたとしても、そんなことは自分たち(文科省官僚)には関係ない。日本の領土を離れるその瞬間まで、その子に教育の機会を提供するのが自分たちの仕事だから」
そう言いきった。私人間の紛争解決を生活の糧としている弁護士よりは、憲法に基づいて日々の業務を遂行している行政官僚の方がよほど人権感覚に優れているようだ。

経済の発展。平和な社会の構築。教育の充実によって得られる社会的恩恵は計り知れない。しかしそれらは副次的効果であって、あくまで教育は1人1人の個人の幸せのために保障されるものである。それが学習権という思想であり、日本国憲法や子どもの権利条約の考え方である。教育に対する考え方やアプローチは様々あり得るけど、少なくとも法律家はここを外してはならない。

2016年2月29日月曜日

英語学習ブレイクスルーその2(スピーキング編)

僕の英語にブレイクスルーが未だに見られないことは、前回書いたとおり。しかしただし、スピーキングに関してはすこーしだけ飛躍が見られた時期もある。

渡米したのが2011年6月下旬。ESLクラスを掛け持ちし、毎日「伊藤サムの英語のプロになる特訓」(http://homepage1.nifty.com/samito/book.pro.htm)でシャドウイングしながら自転車を漕ぎ、Big Bang TheoryのDVDを毎晩繰り返し視聴し、パーティーがあれば必ず参加して英語を話さざるを得ない場所に身を置くことを自分に強制し、「留学の恥はかき捨て」とばかりに数限りない恥をかいても、2012年4月の後期セメスター終了時までに英語で意見を言えるようにはならなかった。

ところが大学の授業が終わってしまった2012年5月頃から、病院に調査に出かけていってインタビューしても友人たちと談笑していても、以前ほどはストレスを感じなくなった。思ったこと感じたことが、ある程度は口をついて出るようになっていた。「(大学)留学は2年後こそ意味があると言われている」そんな話を渡米したばかりの頃、日本人クラスメイトから教えてもらった。あれはこういうことだったのかと思いつつ、経済的その他諸事情により留学期間を1年半以上に延ばすことは叶わなかった。

それ以来、僕の英語スピーキング力が飛躍したことはない。帰国してから英語を話すことがほとんどない生活になったのだから、当然と言えば当然だろう。ときどき音読やシャドウイングをして口の筋肉をストレッチしないと英語の発話すらおぼつかなくなる。
ところが昨年、大阪に遊びに来てくれたアメリカ人の友人と話していたとき、ずいぶんスムーズに英語を話すようになったねと言われた。帰国してからの英語に触れる機会と言えば、海外ドラマとインターネットサイトの視聴くらい。英語を話す機会がなくても、そういったことの積み重ねが今も少しずつスピーキング力を向上させてくれているのだろう。

ベルリッツ梅田校に通っていたとき、シニアディレクターが語学学習はとにかくトレーニング、繰り返しだと教えてくれた。語学も含め学習はスポーツと同じで、本番でも半ば無意識に体が動くところまでトレーニングを積み重ねてやっとものになる。語学学習におけるシャドウイングは、球技における素振りや格闘技における打ち込みのようなものだろう。ただしトレーニングは正しいフォームと正しい方法で行わないと成果が出ないし、むしろ悪い癖がついてしまって有害だ。カタカナ発音で英語学習するのがその最たるものだろう。

星の子スイミング(京都市上京区)で大人に正しいフォームと泳法を身につけさせるプログラムに触れた。平均以下の運動神経でも安全確実に成長できるよう練りに練っているプログラムを用意した柏秀樹さんのライディングスクールのおかげで、バイクの運転技術にそれなりに自信が持てるようになった。Ralph Gracie Academyでは、ブラジリアン柔術の洗練されたトレーニング方法に感銘を受けた。

それらのスポーツと同じく、無意識に法的思考ができるようなところまでトレーニングしないと司法試験には合格できない。しかしそのレベルには、正しいフォームとプログラムで訓練を積み重ねないとなかなかたどり着けない。正しいフォームと正しいトレーニングをできているかどうか見極めるメルクマールとして一番わかりやすいのは「やってて楽しいかどうか」だという結論に、上記の様々な経験を経て達した。どんなに辛くて苦しいトレーニングでもその方法が正しければ、どこか楽しいという感覚がある。そこに成長の実感が伴うからだ。逆に全く楽しくなければ、それは方法が間違っているのであり、悪い癖が付くのでむしろ有害だろう。

英語学習における正しいフォームと方法、それは僕にとっては伊藤サムさんの書いたテキスト類とBig Bang Theoryその他の海外英語ドラマの視聴、そしてそれらを使ったシャドウイングの繰り返しだった。何よりこれらは楽しかった。

1年半どっぷり英語漬けだった留学中ですら小飛躍がやっとだったので、今後の自分にブレイクスルーが訪れることは恐らくないだろう。でも今もまだ少しずつ進歩していることはかろうじて実感しているので、このままやっていこうと思っている。
とはいえ、打ち込みだけやっていても試合で技をかけられるようにならないのと同様、シャドウイングだけでは話せるようにはならない。「実践」の場があればベストなんだろうけど、日本で普通に暮らしているとそんな機会もなかなかない。そこでやむなく「この場面でこういうことを言いたいときアメリカ人なら何て表現するだろうか?」と思考する訓練を意識的に続けているけど(柔道の乱取りみたいなものか?)、それはまた機会を改めて。


2016年2月24日水曜日

英語学習ブレイクスルーその1(リスニング編)

英語を学習し始めたとき、一生懸命続けていると「英語がとつぜん聞こえ始めるときが来る」「ある日急に英語が口からすらすら出てくる日が訪れる」、これをブレイクスルーというのだと聞いた。NHKの有働アナウンサーもエッセイ集の中で、NY勤務時代に仕事をしない部下にキレた瞬間に話せるようになったと書いている。

結論から言うと、自分にはそんなブレイクスルーなどなかった。もしかしたらまだ来てないだけなのかもしれないが、とりあえず英語での日常会話は何とかなっているし、最近ようやくテレビの英語ニュースをつけっぱなしにしながらキッチンで家事をしていても、そこそこ聞き取れるようにはなってきた。

大学生時代は英語の単位を取るのに苦労した。司法修習生のときに英語を習慣的に学習するようになった。アルクの入門用教材はリエゾン(音の崩れ)を理解するのに役立った。ベルリッツにも1年間通った。梅田駅前ビルにある英語屋のおかげでTOEICでは高得点が取れるようになった。子どもが生まれて数年間中断してたけど、NYに行ったときはできるだけ妻に頼らず自分で話すように心掛けた。留学が決まったあと半年間は日米英語学院梅田校に通い詰めた。

途中中断期間含めて足かけ十年間の学習を経て念願の留学が実現し、外国人向け英語学習クラス(ESL)に参加した。初日、ヨーロッパから来た連中はペラペラしゃべっているのに、自分は授業内容についていくどころか先生の説明すら聞き取ることができない。絶望的な気分になった。
先生は「そのうち耳が慣れるよ」と言ってくれた。実際、2週間ほど経ったころ、その先生の話していることは聞き取れるようになった。ヨーロッパ系のクラスメイトたちが流暢なのは、連中はときどき英語と同じルーツを持つ母語(フランス語やスペイン語)の単語を交ぜて誤魔化しているせいだということも、その頃気付いた。

大学の授業が始まってみると、先生たちの講義内容は意外と理解できた。彼らの講義は発話も論理展開も明瞭。たぶんアメリカの大学の授業は留学生も多数いることを前提としているからだろう。しかし問題は、あちらの授業は講師の説明は長くても冒頭の30分程度で、残りの時間はすべて学生同士の議論に当てられることだ。相手の口元を凝視したり、目を閉じて耳だけに集中したりといろいろ工夫したけど、クラスメイトたちの発言を聞き取ることはなかなかできない。とても議論に参加するどころではない。結局、議論に参加するほどのレベルには達しないまま、後期セメスターも終了してしまった。

その間、何らの進歩もなかったわけではない。少人数ゼミでの討論なら、かろうじて学生たちの話していることは何となく聞き取れるようになった。アメリカ人の友人同士の雑談は聞き取れないけど、僕ががその会話に参加していることを相手が意識してくれていると、理解できないことはほぼなくなった。外国人の存在を意識するとき、正しい文法でかつ平易な単語を選びながら話すことになるからだろう。

正確な文法と平易な単語を使って話されると、なぜ理解しやすくなるのか?それは予測が効くようになるからだろう。人間が会話をするとき、かなりの部分を予測で補っていると言われている。僕は妻が何を言っているのか分からないこと、聞き取れないことがよくある。会話に脈絡がなく、日本語の文法も無視しているからだ(むしろ母語ではない英語で話してくれると彼女の話は明瞭で文法も正しく、よく理解できる)。日本語での会話ですら、予測がつかないことはやはり聞き取ることができない。外国語の習得で大事なことは予測できる範囲を増やすこと、そのために最も重要なのは発音、ボキャブラリー、文法、この3つであると留学でつくづく実感した。

発音は本当に苦労した(している)。僕の場合なまじっか単語もアルファベットもカタカナで覚えていたので、その記憶をいったん消去した上で、新しくABCからXYZまでの正しい音をインプットする必要があった。一から覚えるのの倍の手間がかかるということだ。アルクの教材を購入したときにそのことに気付いて以来、意識的に追求してきたつもりだったが、いざ留学してみるとトレーニングが全く足りていなかった。それを克服するために正しく発音発話する練習が最も効率的だったことは、以前のブログに書いたとおり。

最初のESLクラスで使用されたテキストは市販のものだったけど、これがかなり充実していた。日本の大学受験程度では要求されないレベルの単語が、たくさん出てきて苦労した。けれど、しばらくアメリカで暮らしているうちにそれらが日常生活に必要な程度のボキャブラリーであったことを理解した。このテキストは毎章のテーマが興味深くて、新しく覚えた単語がそのストーリーと関連づけられて記憶された。例えばjeopardy。テキストでは、恐竜の「絶滅」という意味で出てきたが、後に新聞を読んでいるうちに社会的あるいは政治的な文脈で「危機に瀕している」「崩壊する」という意味でも使われることを知った。ベルリッツに通っていたときにカウンセリングしてくれた事務職員さんが、日本の中高大学で習う単語数は英語を使えるようになるにはあまりにも少なすぎると教えてくれたことがあった。自分の予測能力の低さは一つにはボキャブラリーが少なすぎることに起因していると、留学してからまざまざと実感した。

文法学習は、人気コメディドラマBig Bang Theoryに依るところが大きかった。例えば、ペニーの父親に嘘をついていたことがばれてレナードが “I was about to tell you ~"と言うシーン。be about to ってこうやって使うんだと思ったことが印象に残っている。単なる文法知識として頭の中にあった時制の使い分けや仮定法の使い方なんかが、具体的な状況との関係で理解できるようになり、それゆえ記憶に定着していった。もちろん、同じシーンを何回も何回も繰り返し観た上での定着だ。分からない単語が出てきたときはポーズして辞書を引いた。気になったセリフはシャドウイングできるまで何度も巻き戻した。それらを納得いくまで繰り返した上で、おさらいのために通しで視聴した。こうした作業を飽きずに出来たのは、何度観ても面白い優れた脚本と俳優たちの演技のおかげだ。ちなみに、ヒロインのペニーを演じるKaley Cuocoは口の動きが大きく発話も明瞭なので、彼女のおかげですいぶん発音の勉強にもなった。

字幕なしでは聞き取れない英語のセリフを、英語字幕をつけるだけで聞き取れるということがよくある。先に目で文章を追うことで予測が付くようになるからだろう。帰国してから映画(レ・ミゼラブル)を見に行って面白かったのが、この現象が英語字幕のみならず、日本語字幕でも起こることだ。日本語字幕をさっと読んで文脈を理解するだけでも予測が効くようになって、耳から入ってくる英語が聞き取れるようになるということなんだろう。

帰国してからケーブルテレビに加入し、海外ドラマの視聴が趣味の一つになった。日本語字幕を読みながら聞き取れる英語の範囲も少しずつ拡大し、最近は字幕翻訳者さんの工夫に感動することも少なくない。Big Bang Theory や Game of Thronesなど留学中に観ていたドラマがブルーレイになると必ず購入し、英語字幕で観ている。こういったことを帰国後も2年3年と積み重ねてきた結果、冒頭に書いたとおり、最近ようやく英語ニュースが家事をしながらでも耳に入ってくるようになってきた。ブレイクスルーは未だに訪れていない。




2016年2月23日火曜日

「なんでだす?なんでだすのん?」

NHK連ドラ「あさが来た」は、あさのこのセリフをキーワードにすることによって「女はこういうもんだ」「女はこうあらねばならない」といった類いの既成概念には実は合理的な理由がない、或いは時代の変化とともに正当性を失っていることが往々としてあり、その”当たり前”を疑うことが大事なんだというメッセージを主題に据えた、ものすごい意欲作だと思う。そしてその大上段なテーマを嫌みなくストーリー化してのける緻密な脚本と、それをドラマにしてしまう俳優陣その他スタッフの力量と熱意にいつも感銘を受ける。

先日、家庭裁判所で持論を振りかざす裁判官に「なんでですか?」「根拠を教えて下さい」を連発したら、「そんな揚げ足を取るようならもうこれ以上あなたとは話をしません!」と捨て台詞を吐かれて、部屋から出て行かれてしまった。一般的に裁判官は論理構成に(多くの弁護士よりも)緻密な人が多いので、彼女がそこまで自信満々に言うならそれなりの理由があるだろうと思って尋ねていただけで、全く詰めているつもりはなかった。が、そうやって逆ギレした態度を見て「要するに何も考えてなかったんやね」と得心した。

しかし僕ら法律家の商売は”論証してナンボ”なんやから、裁判官のクセにそんなことでキレんなよと言いたい。彼女の同僚の若手裁判官なんてめっちゃ理屈に細かくて、毎回期日で「どうしてこれで不法行為が成立するか分からない」と詰めてくるもんだから、ここんとこ続けて主張の補充をさせられている。「無断で銀行から預金引き出してんねやから普通の裁判官やったら、十分これで不法行為の心証とるで」と心の中で愚痴りつつ、法律家の理屈としては彼の方が完全に正しいので唯々諾々と従っている。要するに彼は、裁判官の中ですら「こういうものだ」とされている既成概念に常に「なんで?」と疑問を持つ人で、裁判官としての職務に忠実かつ誠実な人なのだ。だから、こちらも弁護士として彼からの突っ込みに対しては、内心グダグダ愚痴りつつも自分の至らなさを素直に反省し、真摯に応えざるを得ない。

宮崎あおい氏の類い希なる演技力と美しさに口を半開きにして見とれながらも、常識や既成概念を疑う姿勢を持つこと、「なんでだす?なんでだすのん?」は法律家にとって必須なのだと心を改める毎朝なのであります。


2016年2月22日月曜日

極私的TPO

そんなに時間をかけるわけじゃないけど、毎朝その日の服装をどうするか悩む。タイムリミットはシャツにアイロンをかける時間。なぜならシャツとスーツ(ジャケパン)は互いを規制するから。

アイロンかける時間がないときは悩まないで済む。ノンアイロンシャツは2枚しか持ってないので、そのシャツに合わせるしか選択肢がなくなるから。
天気が悪い日も同様。まず靴が決まるので、そこからパンツ・ジャケット・シャツと逆算していくと自ずと定まる。

証人尋問の日はスーツを着てオックスフォードを履く。自分に気合いを入れるためだ。でもタイはたいていグリーン。証人が特に敵対的であるときほど威圧し過ぎないことを心掛けているおり、相手の目線が来やすいVゾーンの色合いはそこそこ影響があると思っているから。

尋問じゃなくても、裁判所へ行く日はあんまりカジュアルにはし過ぎない。新しい相談者と会う日も同じ。とはいえ、無地のスーツは好むものの、柄物は一般的にビジネスには不向きとされるチョークストライプしか持っていない。ピンストやマイクロチェックはともすれば冷たい印象を与える。相談者や依頼者ときには相手方にすら親しみを感じて欲しいので、そういう「お堅い」服は、今は着ないようにしている。

こういった基準が何も当てはまらない日が問題だ。アイロンかけなあかん時間が迫ってるのに、シャツ・ジャケット・パンツ・靴のどこから決めたら良いのか分からない。でも、それが月曜であれば靴から選んでることが多い気がする。

月曜はこれといった予定がなくとも、何となくプレッシャーがかかる。たとえ〆切が迫ってなくても、あれもせなこれもせなと課題で頭の中に押し寄せる。小手先の誤魔化しに過ぎないけど、良い靴を履くとほんの少しだけ自分をcheer up出来る。



この日の靴はエドワードマイヤー(Edward Meier)。長らく続く日本のデフレのせいか円安のせいか、はたまたその両方が原因か分からないけど、ここ10年間でヨーロッパものの服飾類は高騰し、とても自分には手の届かないものになってしまっている。若い頃に少し無理して手に入れた靴たちが、月曜日の不安な背中を押してくれる。

あさイチの保育特集


よくぞここまで取材して作り込んでくれたもんだ。思うところがたくさんあったけど、今日は一つだけ。

僕は子どもが生まれてから素晴らしい保育者教育者との出会いに恵まれてきたおかげで、自分は良い保育所や学校を見分けられるようになったという、妙な自信があります。

上の子Yが0歳からお世話になったのは大阪市立まった第一保育所。所長先生は毎朝、門から少し離れたところで百数十人もの子どもたち全員が登園してくる様子を見てくれていました。僕ら親は、彼女とほんの少し立ち話するだけで安心することができました。公立園だから見るからにしんどそうな親御さんもいて、登園時にギャアとなって子どものカバンを投げつけてしまっても、帰る時はいつも落ち着いて帰っていました。

映画「みんなの学校」の中で木村校長先生は、校舎の上から登校してくる子どもたちを全員、一人一人見ています。そこに感銘を受けたと本人に言ったら、「最初は門のところにおったんやけど、地域のボランティアの人たちに校長がそこにおったら邪魔や言われてああなってん」と笑ってました。

在米中にYが通ったモンテッソーリ・ファミリースクールの園長先生も、最初に会った瞬間に「この人は子どもを預けて大丈夫な人や」と分かる、そういう雰囲気を纏った人でした。「この子は英語が一言も分からないんです」と言う僕らに対して、彼女は「そんなことは全く問題ない」と即答。見学に行ったその日から最後の登園日までいつも彼女はShe is greatと言って、Yの個性やその日あったことを話してくれました。

いま下の子Rが通っている保育園でも、子どもたちは保育士の先生が大好き。運動会では子どもたちが、先生のふところ目掛けて飛び込んでいく様子が見られます。
子どもたちにとって先生のお膝は特等席。うちのRは少しシャイなところがあるので一番に特等席を取ることはないけど、横目で席が空くのを常に狙ってます。そして席が空くやいなや、忍者よろしく先生のお膝にスッと滑り込むのです。

保育士は子守りではない。心理や発達、教育や安全など人類が蓄積してきた学問的知見を修めそれを現場で実践する、医師や看護師と同じ高度なプロフェッションです。この認識が一般化し、保育士の待遇が大幅に向上しない限り、この国は滅びの一途を辿るしかないのだろう、僕はそう考えています。

2016年2月21日日曜日

「捜査関係者への取材で分かりました。」

朝テレビをつけてて聞くたびにカチンと来る、この言葉。「取材」!?刑事から一方的に与えられるリークを、そのまま垂れ流すのが「取材」!?

捜査の初期段階で流れる情報で、被疑者がこう供述しているなんてものはたとえそれが事実だとしても刑事が前後の文脈を無視して一部を切り取ったものだし、「否認しています」なんてのも担当捜査官の評価に過ぎない。マスコミの報道と実際は全然違うというのが、多くの弁護士(と刑事や検事)の感覚だろう。

そういうリークをいち早くもらうために刑事の周りに常に張り付いているのだから、記者個人の感覚としては確かに「取材」の結果、得られた情報なのだろう。だけど受け手の側、テレビの視聴者としては「取材の結果」と言われたら、少なくとも報道機関の記者が自分できちんと調べた結果だという印象を受けるのではなかろうか?


よくよく聞いているとその後に「警察の発表によると」と紹介しているときもあるが、そちらはほとんど印象に残らない。意図的に公正な報道を投げ捨てているんじゃないかと勘ぐってしまう。本当に公正な報道を心掛けるつもりがあるのなら、ニュース紹介の冒頭は
「捜査関係者への取材で分かりました」ではなく、「大阪府警は次のように発表しました」としてほしい。

2016年2月8日月曜日

「ニューヨーカーに学ぶ軽く見られない英語」感想

編集者が付けたであろうタイトルはアレだけど、内容はしごく真っ当で面白く、よくあるマニュアル的なものや自己啓発系英語本とは一線を画している。

チップのことやタクシーの使い方、ホームレスの人にお金や食べ物を渡すかどうか(上から目線で施すように感じて躊躇する人が多い)など、日本からの留学生の多くが悩むであろうテーマが具体的なエピソードを交えて解説してあり、説得力に富んでいる。

ス タバのレジがいちいち客からファーストネームを聞いてマジックでカップに書き込むところに象徴されてると思うけど、ニューヨークやサンフランシスコ周辺 地域は実はけっこうアナログで昭和的。多文化多民族を前提とするアメリカンウェイをリスペクトして胸襟開いて飛び込めば必ず受容してもらえる、そのための 英語のヒントを教えてくれる実践的良書。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17621


2016年2月4日木曜日

有名人のスキャンダル報道

弁護士にとって不倫と覚せい剤は日常の出来事、ある先輩弁護士が書いているのを見て確かにそうだなと思った(弁護士がみんな不倫や覚せい剤使用をしているという意味ではない、念のため)。自分自身のことを考えてみても弁護士登録依頼13年間、不倫と覚せい剤が途切れたことはほとんどない(自分がやってるという意味ではない、念のため)。だから、テレビをはじめとするマスメディアがそんなことで大騒ぎして有名人をあげつらうことは本当に理解しがたい。

日本の現行法上は覚せい剤の自己使用は犯罪ということになっているが、司法業界では「被害者なき犯罪」とも言われている。しかし、覚せい剤自己使用者はまさに被害者にほかならない。仕事柄いままで、覚せい剤によって精神も脳神経も人生もボロボロに壊された人たちとその家族をたくさん見てきた。加害者はもちろん、覚せい剤独特の異常に高い依存性を熟知して不法かつ莫大な利益を得ている、覚せい剤の販売者たちだ。ところが有名人の覚せい剤使用が発覚したときに、こういった覚せい剤事犯の本質に触れた報道を見た記憶は全くない。

ああいう報道を見ていると、この人たちは家族に自分の仕事をどうやって説明するのだろうと思う。はたして「お母ちゃんが他人のスキャンダルを頑張ってあげつらっているから、あんたはこうやってご飯を食べられてるんやで」とか、「お父さんお母さんが私を大学まで行かしてくれたおかげで、こうやって人の弱みを報道することで高給を得られるようになりました」とでも言うのだろうか?はたして彼ら彼女らは、自分の子どもや親に自分の仕事を説明することができるのだろうか?

これまた仕事柄、子どもを養うために性風俗産業に従事している人たちも何人か見てきた。子どもには自分の仕事は内緒にしている。しかし、彼女たちが傷つけているのは自分自身であって、けっして他人の弱みをあげつらって金を儲けているわけでも飯を食っているわけでもない。そこがメディア業界の連中とは根本的に異なる。

「職業には貴賎はない」という言葉があるが、賛同できない。職業には貴賎があると考えている。かつての依頼者である後者の人たちは僕にとっては「貴」であり、マスメディア業界の前者の人たちは「賤」である、そのように常々思っている。

2016年1月28日木曜日

隣の芝は青く見える

古今東西のことわざはどれも示唆に富んでいて、ふとしたときに脳裏をよぎるものはたくさんあるけれど、最も出現頻度が高いのがこれ。
「隣の芝は青く見える」

弁護士という職業柄、どうしても人同士の争いごとに首を突っ込むことが多い。解決すれば依頼者から感謝してもらえることがこの仕事の一番の魅力ではある。でもそれは、すでにその起こってしまったトラブルによるダメージを回復あるいは最小化したことに対しての感謝であり、新たなものを作り出したことに対するそれではない。

ストレスがたまってくると、自分以外の職業はすべてクリエイティブな仕事に見えてくる。その最たるものが料理人だ。大好きなお店で目の前に出された美しい料理を含んだ瞬間、口の中に、続けて全身に幸せが広がる。積み重ねてきた技術と知識でこんなにも人を幸せに出る仕事ってなんて素晴らしいんだろうと、目の前の料理人に対するリスペクトが膨らむ。
隣の芝はまばゆいくらいに青々と輝いている。

2016年1月25日放送のNHK「プロフェッショナル」は京都の料理人、石原仁司さん。石原さんのお店「未在」は半年前からでないと予約がとれないらしい。
この番組の中で、石原さんから「お客さんは半年も待って楽しみにして来てくれはるんやから」という言葉がぼそっと出てきた。そのときの顔は決して楽しそうではない。半年間も待ちに待って期待が最高潮に達した状態で来てくれるのだから絶対に落胆させてはいけない、必ず満足してもらわなければならないという決意と覚悟。
交渉や訴訟でも、ここでミスをすると依頼者の人生を左右しかねないと大きなプレッシャーがかかるときがある。そういうレベルのプレッシャーを、この料理人は毎日自分に課しているようだ。
隣の芝は青くなかった。

弁護士は職人だ。一つとして同じ案件はない。すべての案件はオーダーメイドで、それぞれに応じて技術と知識を盛り込み、創意工夫をこらす。クリエイティブネスの方向は料理人とは違うかもしれない。けど、きっちり仕事をやりきったときに目の前のクライアントから直接反応を受け取れる仕事はそうそう多くないわけで、そんなに悪い仕事でもなさそうだ。
隣の芝は青く見えるだけ、自分にそう言い聞かせる。

NHK「プロフェッショナル」第285回 2016年1月25日放送
京都の冬、もてなしを究める 日本料理人・石原仁司(ひとし)
http://www.nhk.or.jp/professional/2016/0125/index.html

2016年1月12日火曜日

Native Hawaiian Graduates Wearing Nothing but Cultural Pride 米国NBC報道より

卒業生が壇上でガウンを脱いで伝統衣装のフンドシ一丁になったところ、ハワイ大学の卒業式でスタンディングオベーションが起こったという記事。

ハワイ原住民族の若者らしい鍛え上げられた肉体が、グリーンのフンドシ(maloというらしい)に映えて素晴らしい。

Native Hawaiian Graduates Wearing Nothing but Cultural Prideという粋なタイトルに、記者の心意気を感じます。

http://www.nbcnews.com/news/asian-america/native-hawaiian-graduates-wearing-nothing-cultural-pride-n284426

2016年1月6日水曜日

刑事フォイル FOYLE’S WAR


英国ドラマ「刑事フォイル」ファーストシーズン第2話より、反ユダヤ主義者たちのパーティーシーンでの会話。

 BBCの放送はもはや信じられん。作り話ばかりね。
 ロンドンにはユダヤ人がはびこっている。ホテルもユダヤ人だらけ。ぞっとする。
 マナー知らずで不正ばかり。最低の人種よ。
 新聞社はユダヤ人に支配されている。
 ドイツで迫害されたって自業自得だわ。

あくまでこのドラマはフィクションとはいえ、これらの登場人物たちの発言は、1940年代当時のイギリス社会において実際に流布されていた言説に基づいてい るのだろう。驚くべきは、これらの「ユダヤ人」の部分を「中国人」「朝鮮人」「韓国人」と入れ替えれば、すっかりそのまま現代日本でのそれと同じになって しまうことだ。

イギリスがドイツとの戦争真っ直中であった1940年から始まるファーストシーズン、当時のイギリスに反ユダヤ主義やナチス信奉者もいた一方で、ドイツ系やイタリア系住人に対する排外主義と迫害があったことを描き出している。
原題「FOYLE’S WAR」の「WAR」には、フォイルの本来の職務である犯罪との闘いのほかに、ドイツとの戦争、権力腐敗との闘い、招集された息子を心配する父親としての不安との闘いなどな ど、様々な意味が込められているのだろう。そう考えると、「刑事フォイル」は良く出来た邦題だとは思うが、原題のニュアンスを完全に失ってしまっているの は残念。

それにしても「グランチェスター」といいこの「刑事フォイル」といい、どうしてイギリスのサスペンスドラマはこうも重厚なのだろうか。
俳優がまた素晴らしい。特にこの第2話で反ユダヤ主義者の首領を演じているチャールズ・ダンス(Charles Dance)。Game of Thronesシリーズの冷徹な君主タイウィン・ラニスター役もそうとう魅力的だったけど、こういう威厳のある悪役をやらせるとこの人の右に出る者はいないんじゃないかと思わせられる。

刑事フォイル|NHK BSプレミアム 海外ドラマ - NHK.com
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/foyle/