2016年2月29日月曜日

英語学習ブレイクスルーその2(スピーキング編)

僕の英語にブレイクスルーが未だに見られないことは、前回書いたとおり。しかしただし、スピーキングに関してはすこーしだけ飛躍が見られた時期もある。

渡米したのが2011年6月下旬。ESLクラスを掛け持ちし、毎日「伊藤サムの英語のプロになる特訓」(http://homepage1.nifty.com/samito/book.pro.htm)でシャドウイングしながら自転車を漕ぎ、Big Bang TheoryのDVDを毎晩繰り返し視聴し、パーティーがあれば必ず参加して英語を話さざるを得ない場所に身を置くことを自分に強制し、「留学の恥はかき捨て」とばかりに数限りない恥をかいても、2012年4月の後期セメスター終了時までに英語で意見を言えるようにはならなかった。

ところが大学の授業が終わってしまった2012年5月頃から、病院に調査に出かけていってインタビューしても友人たちと談笑していても、以前ほどはストレスを感じなくなった。思ったこと感じたことが、ある程度は口をついて出るようになっていた。「(大学)留学は2年後こそ意味があると言われている」そんな話を渡米したばかりの頃、日本人クラスメイトから教えてもらった。あれはこういうことだったのかと思いつつ、経済的その他諸事情により留学期間を1年半以上に延ばすことは叶わなかった。

それ以来、僕の英語スピーキング力が飛躍したことはない。帰国してから英語を話すことがほとんどない生活になったのだから、当然と言えば当然だろう。ときどき音読やシャドウイングをして口の筋肉をストレッチしないと英語の発話すらおぼつかなくなる。
ところが昨年、大阪に遊びに来てくれたアメリカ人の友人と話していたとき、ずいぶんスムーズに英語を話すようになったねと言われた。帰国してからの英語に触れる機会と言えば、海外ドラマとインターネットサイトの視聴くらい。英語を話す機会がなくても、そういったことの積み重ねが今も少しずつスピーキング力を向上させてくれているのだろう。

ベルリッツ梅田校に通っていたとき、シニアディレクターが語学学習はとにかくトレーニング、繰り返しだと教えてくれた。語学も含め学習はスポーツと同じで、本番でも半ば無意識に体が動くところまでトレーニングを積み重ねてやっとものになる。語学学習におけるシャドウイングは、球技における素振りや格闘技における打ち込みのようなものだろう。ただしトレーニングは正しいフォームと正しい方法で行わないと成果が出ないし、むしろ悪い癖がついてしまって有害だ。カタカナ発音で英語学習するのがその最たるものだろう。

星の子スイミング(京都市上京区)で大人に正しいフォームと泳法を身につけさせるプログラムに触れた。平均以下の運動神経でも安全確実に成長できるよう練りに練っているプログラムを用意した柏秀樹さんのライディングスクールのおかげで、バイクの運転技術にそれなりに自信が持てるようになった。Ralph Gracie Academyでは、ブラジリアン柔術の洗練されたトレーニング方法に感銘を受けた。

それらのスポーツと同じく、無意識に法的思考ができるようなところまでトレーニングしないと司法試験には合格できない。しかしそのレベルには、正しいフォームとプログラムで訓練を積み重ねないとなかなかたどり着けない。正しいフォームと正しいトレーニングをできているかどうか見極めるメルクマールとして一番わかりやすいのは「やってて楽しいかどうか」だという結論に、上記の様々な経験を経て達した。どんなに辛くて苦しいトレーニングでもその方法が正しければ、どこか楽しいという感覚がある。そこに成長の実感が伴うからだ。逆に全く楽しくなければ、それは方法が間違っているのであり、悪い癖が付くのでむしろ有害だろう。

英語学習における正しいフォームと方法、それは僕にとっては伊藤サムさんの書いたテキスト類とBig Bang Theoryその他の海外英語ドラマの視聴、そしてそれらを使ったシャドウイングの繰り返しだった。何よりこれらは楽しかった。

1年半どっぷり英語漬けだった留学中ですら小飛躍がやっとだったので、今後の自分にブレイクスルーが訪れることは恐らくないだろう。でも今もまだ少しずつ進歩していることはかろうじて実感しているので、このままやっていこうと思っている。
とはいえ、打ち込みだけやっていても試合で技をかけられるようにならないのと同様、シャドウイングだけでは話せるようにはならない。「実践」の場があればベストなんだろうけど、日本で普通に暮らしているとそんな機会もなかなかない。そこでやむなく「この場面でこういうことを言いたいときアメリカ人なら何て表現するだろうか?」と思考する訓練を意識的に続けているけど(柔道の乱取りみたいなものか?)、それはまた機会を改めて。


2016年2月24日水曜日

英語学習ブレイクスルーその1(リスニング編)

英語を学習し始めたとき、一生懸命続けていると「英語がとつぜん聞こえ始めるときが来る」「ある日急に英語が口からすらすら出てくる日が訪れる」、これをブレイクスルーというのだと聞いた。NHKの有働アナウンサーもエッセイ集の中で、NY勤務時代に仕事をしない部下にキレた瞬間に話せるようになったと書いている。

結論から言うと、自分にはそんなブレイクスルーなどなかった。もしかしたらまだ来てないだけなのかもしれないが、とりあえず英語での日常会話は何とかなっているし、最近ようやくテレビの英語ニュースをつけっぱなしにしながらキッチンで家事をしていても、そこそこ聞き取れるようにはなってきた。

大学生時代は英語の単位を取るのに苦労した。司法修習生のときに英語を習慣的に学習するようになった。アルクの入門用教材はリエゾン(音の崩れ)を理解するのに役立った。ベルリッツにも1年間通った。梅田駅前ビルにある英語屋のおかげでTOEICでは高得点が取れるようになった。子どもが生まれて数年間中断してたけど、NYに行ったときはできるだけ妻に頼らず自分で話すように心掛けた。留学が決まったあと半年間は日米英語学院梅田校に通い詰めた。

途中中断期間含めて足かけ十年間の学習を経て念願の留学が実現し、外国人向け英語学習クラス(ESL)に参加した。初日、ヨーロッパから来た連中はペラペラしゃべっているのに、自分は授業内容についていくどころか先生の説明すら聞き取ることができない。絶望的な気分になった。
先生は「そのうち耳が慣れるよ」と言ってくれた。実際、2週間ほど経ったころ、その先生の話していることは聞き取れるようになった。ヨーロッパ系のクラスメイトたちが流暢なのは、連中はときどき英語と同じルーツを持つ母語(フランス語やスペイン語)の単語を交ぜて誤魔化しているせいだということも、その頃気付いた。

大学の授業が始まってみると、先生たちの講義内容は意外と理解できた。彼らの講義は発話も論理展開も明瞭。たぶんアメリカの大学の授業は留学生も多数いることを前提としているからだろう。しかし問題は、あちらの授業は講師の説明は長くても冒頭の30分程度で、残りの時間はすべて学生同士の議論に当てられることだ。相手の口元を凝視したり、目を閉じて耳だけに集中したりといろいろ工夫したけど、クラスメイトたちの発言を聞き取ることはなかなかできない。とても議論に参加するどころではない。結局、議論に参加するほどのレベルには達しないまま、後期セメスターも終了してしまった。

その間、何らの進歩もなかったわけではない。少人数ゼミでの討論なら、かろうじて学生たちの話していることは何となく聞き取れるようになった。アメリカ人の友人同士の雑談は聞き取れないけど、僕ががその会話に参加していることを相手が意識してくれていると、理解できないことはほぼなくなった。外国人の存在を意識するとき、正しい文法でかつ平易な単語を選びながら話すことになるからだろう。

正確な文法と平易な単語を使って話されると、なぜ理解しやすくなるのか?それは予測が効くようになるからだろう。人間が会話をするとき、かなりの部分を予測で補っていると言われている。僕は妻が何を言っているのか分からないこと、聞き取れないことがよくある。会話に脈絡がなく、日本語の文法も無視しているからだ(むしろ母語ではない英語で話してくれると彼女の話は明瞭で文法も正しく、よく理解できる)。日本語での会話ですら、予測がつかないことはやはり聞き取ることができない。外国語の習得で大事なことは予測できる範囲を増やすこと、そのために最も重要なのは発音、ボキャブラリー、文法、この3つであると留学でつくづく実感した。

発音は本当に苦労した(している)。僕の場合なまじっか単語もアルファベットもカタカナで覚えていたので、その記憶をいったん消去した上で、新しくABCからXYZまでの正しい音をインプットする必要があった。一から覚えるのの倍の手間がかかるということだ。アルクの教材を購入したときにそのことに気付いて以来、意識的に追求してきたつもりだったが、いざ留学してみるとトレーニングが全く足りていなかった。それを克服するために正しく発音発話する練習が最も効率的だったことは、以前のブログに書いたとおり。

最初のESLクラスで使用されたテキストは市販のものだったけど、これがかなり充実していた。日本の大学受験程度では要求されないレベルの単語が、たくさん出てきて苦労した。けれど、しばらくアメリカで暮らしているうちにそれらが日常生活に必要な程度のボキャブラリーであったことを理解した。このテキストは毎章のテーマが興味深くて、新しく覚えた単語がそのストーリーと関連づけられて記憶された。例えばjeopardy。テキストでは、恐竜の「絶滅」という意味で出てきたが、後に新聞を読んでいるうちに社会的あるいは政治的な文脈で「危機に瀕している」「崩壊する」という意味でも使われることを知った。ベルリッツに通っていたときにカウンセリングしてくれた事務職員さんが、日本の中高大学で習う単語数は英語を使えるようになるにはあまりにも少なすぎると教えてくれたことがあった。自分の予測能力の低さは一つにはボキャブラリーが少なすぎることに起因していると、留学してからまざまざと実感した。

文法学習は、人気コメディドラマBig Bang Theoryに依るところが大きかった。例えば、ペニーの父親に嘘をついていたことがばれてレナードが “I was about to tell you ~"と言うシーン。be about to ってこうやって使うんだと思ったことが印象に残っている。単なる文法知識として頭の中にあった時制の使い分けや仮定法の使い方なんかが、具体的な状況との関係で理解できるようになり、それゆえ記憶に定着していった。もちろん、同じシーンを何回も何回も繰り返し観た上での定着だ。分からない単語が出てきたときはポーズして辞書を引いた。気になったセリフはシャドウイングできるまで何度も巻き戻した。それらを納得いくまで繰り返した上で、おさらいのために通しで視聴した。こうした作業を飽きずに出来たのは、何度観ても面白い優れた脚本と俳優たちの演技のおかげだ。ちなみに、ヒロインのペニーを演じるKaley Cuocoは口の動きが大きく発話も明瞭なので、彼女のおかげですいぶん発音の勉強にもなった。

字幕なしでは聞き取れない英語のセリフを、英語字幕をつけるだけで聞き取れるということがよくある。先に目で文章を追うことで予測が付くようになるからだろう。帰国してから映画(レ・ミゼラブル)を見に行って面白かったのが、この現象が英語字幕のみならず、日本語字幕でも起こることだ。日本語字幕をさっと読んで文脈を理解するだけでも予測が効くようになって、耳から入ってくる英語が聞き取れるようになるということなんだろう。

帰国してからケーブルテレビに加入し、海外ドラマの視聴が趣味の一つになった。日本語字幕を読みながら聞き取れる英語の範囲も少しずつ拡大し、最近は字幕翻訳者さんの工夫に感動することも少なくない。Big Bang Theory や Game of Thronesなど留学中に観ていたドラマがブルーレイになると必ず購入し、英語字幕で観ている。こういったことを帰国後も2年3年と積み重ねてきた結果、冒頭に書いたとおり、最近ようやく英語ニュースが家事をしながらでも耳に入ってくるようになってきた。ブレイクスルーは未だに訪れていない。




2016年2月23日火曜日

「なんでだす?なんでだすのん?」

NHK連ドラ「あさが来た」は、あさのこのセリフをキーワードにすることによって「女はこういうもんだ」「女はこうあらねばならない」といった類いの既成概念には実は合理的な理由がない、或いは時代の変化とともに正当性を失っていることが往々としてあり、その”当たり前”を疑うことが大事なんだというメッセージを主題に据えた、ものすごい意欲作だと思う。そしてその大上段なテーマを嫌みなくストーリー化してのける緻密な脚本と、それをドラマにしてしまう俳優陣その他スタッフの力量と熱意にいつも感銘を受ける。

先日、家庭裁判所で持論を振りかざす裁判官に「なんでですか?」「根拠を教えて下さい」を連発したら、「そんな揚げ足を取るようならもうこれ以上あなたとは話をしません!」と捨て台詞を吐かれて、部屋から出て行かれてしまった。一般的に裁判官は論理構成に(多くの弁護士よりも)緻密な人が多いので、彼女がそこまで自信満々に言うならそれなりの理由があるだろうと思って尋ねていただけで、全く詰めているつもりはなかった。が、そうやって逆ギレした態度を見て「要するに何も考えてなかったんやね」と得心した。

しかし僕ら法律家の商売は”論証してナンボ”なんやから、裁判官のクセにそんなことでキレんなよと言いたい。彼女の同僚の若手裁判官なんてめっちゃ理屈に細かくて、毎回期日で「どうしてこれで不法行為が成立するか分からない」と詰めてくるもんだから、ここんとこ続けて主張の補充をさせられている。「無断で銀行から預金引き出してんねやから普通の裁判官やったら、十分これで不法行為の心証とるで」と心の中で愚痴りつつ、法律家の理屈としては彼の方が完全に正しいので唯々諾々と従っている。要するに彼は、裁判官の中ですら「こういうものだ」とされている既成概念に常に「なんで?」と疑問を持つ人で、裁判官としての職務に忠実かつ誠実な人なのだ。だから、こちらも弁護士として彼からの突っ込みに対しては、内心グダグダ愚痴りつつも自分の至らなさを素直に反省し、真摯に応えざるを得ない。

宮崎あおい氏の類い希なる演技力と美しさに口を半開きにして見とれながらも、常識や既成概念を疑う姿勢を持つこと、「なんでだす?なんでだすのん?」は法律家にとって必須なのだと心を改める毎朝なのであります。


2016年2月22日月曜日

極私的TPO

そんなに時間をかけるわけじゃないけど、毎朝その日の服装をどうするか悩む。タイムリミットはシャツにアイロンをかける時間。なぜならシャツとスーツ(ジャケパン)は互いを規制するから。

アイロンかける時間がないときは悩まないで済む。ノンアイロンシャツは2枚しか持ってないので、そのシャツに合わせるしか選択肢がなくなるから。
天気が悪い日も同様。まず靴が決まるので、そこからパンツ・ジャケット・シャツと逆算していくと自ずと定まる。

証人尋問の日はスーツを着てオックスフォードを履く。自分に気合いを入れるためだ。でもタイはたいていグリーン。証人が特に敵対的であるときほど威圧し過ぎないことを心掛けているおり、相手の目線が来やすいVゾーンの色合いはそこそこ影響があると思っているから。

尋問じゃなくても、裁判所へ行く日はあんまりカジュアルにはし過ぎない。新しい相談者と会う日も同じ。とはいえ、無地のスーツは好むものの、柄物は一般的にビジネスには不向きとされるチョークストライプしか持っていない。ピンストやマイクロチェックはともすれば冷たい印象を与える。相談者や依頼者ときには相手方にすら親しみを感じて欲しいので、そういう「お堅い」服は、今は着ないようにしている。

こういった基準が何も当てはまらない日が問題だ。アイロンかけなあかん時間が迫ってるのに、シャツ・ジャケット・パンツ・靴のどこから決めたら良いのか分からない。でも、それが月曜であれば靴から選んでることが多い気がする。

月曜はこれといった予定がなくとも、何となくプレッシャーがかかる。たとえ〆切が迫ってなくても、あれもせなこれもせなと課題で頭の中に押し寄せる。小手先の誤魔化しに過ぎないけど、良い靴を履くとほんの少しだけ自分をcheer up出来る。



この日の靴はエドワードマイヤー(Edward Meier)。長らく続く日本のデフレのせいか円安のせいか、はたまたその両方が原因か分からないけど、ここ10年間でヨーロッパものの服飾類は高騰し、とても自分には手の届かないものになってしまっている。若い頃に少し無理して手に入れた靴たちが、月曜日の不安な背中を押してくれる。

あさイチの保育特集


よくぞここまで取材して作り込んでくれたもんだ。思うところがたくさんあったけど、今日は一つだけ。

僕は子どもが生まれてから素晴らしい保育者教育者との出会いに恵まれてきたおかげで、自分は良い保育所や学校を見分けられるようになったという、妙な自信があります。

上の子Yが0歳からお世話になったのは大阪市立まった第一保育所。所長先生は毎朝、門から少し離れたところで百数十人もの子どもたち全員が登園してくる様子を見てくれていました。僕ら親は、彼女とほんの少し立ち話するだけで安心することができました。公立園だから見るからにしんどそうな親御さんもいて、登園時にギャアとなって子どものカバンを投げつけてしまっても、帰る時はいつも落ち着いて帰っていました。

映画「みんなの学校」の中で木村校長先生は、校舎の上から登校してくる子どもたちを全員、一人一人見ています。そこに感銘を受けたと本人に言ったら、「最初は門のところにおったんやけど、地域のボランティアの人たちに校長がそこにおったら邪魔や言われてああなってん」と笑ってました。

在米中にYが通ったモンテッソーリ・ファミリースクールの園長先生も、最初に会った瞬間に「この人は子どもを預けて大丈夫な人や」と分かる、そういう雰囲気を纏った人でした。「この子は英語が一言も分からないんです」と言う僕らに対して、彼女は「そんなことは全く問題ない」と即答。見学に行ったその日から最後の登園日までいつも彼女はShe is greatと言って、Yの個性やその日あったことを話してくれました。

いま下の子Rが通っている保育園でも、子どもたちは保育士の先生が大好き。運動会では子どもたちが、先生のふところ目掛けて飛び込んでいく様子が見られます。
子どもたちにとって先生のお膝は特等席。うちのRは少しシャイなところがあるので一番に特等席を取ることはないけど、横目で席が空くのを常に狙ってます。そして席が空くやいなや、忍者よろしく先生のお膝にスッと滑り込むのです。

保育士は子守りではない。心理や発達、教育や安全など人類が蓄積してきた学問的知見を修めそれを現場で実践する、医師や看護師と同じ高度なプロフェッションです。この認識が一般化し、保育士の待遇が大幅に向上しない限り、この国は滅びの一途を辿るしかないのだろう、僕はそう考えています。

2016年2月21日日曜日

「捜査関係者への取材で分かりました。」

朝テレビをつけてて聞くたびにカチンと来る、この言葉。「取材」!?刑事から一方的に与えられるリークを、そのまま垂れ流すのが「取材」!?

捜査の初期段階で流れる情報で、被疑者がこう供述しているなんてものはたとえそれが事実だとしても刑事が前後の文脈を無視して一部を切り取ったものだし、「否認しています」なんてのも担当捜査官の評価に過ぎない。マスコミの報道と実際は全然違うというのが、多くの弁護士(と刑事や検事)の感覚だろう。

そういうリークをいち早くもらうために刑事の周りに常に張り付いているのだから、記者個人の感覚としては確かに「取材」の結果、得られた情報なのだろう。だけど受け手の側、テレビの視聴者としては「取材の結果」と言われたら、少なくとも報道機関の記者が自分できちんと調べた結果だという印象を受けるのではなかろうか?


よくよく聞いているとその後に「警察の発表によると」と紹介しているときもあるが、そちらはほとんど印象に残らない。意図的に公正な報道を投げ捨てているんじゃないかと勘ぐってしまう。本当に公正な報道を心掛けるつもりがあるのなら、ニュース紹介の冒頭は
「捜査関係者への取材で分かりました」ではなく、「大阪府警は次のように発表しました」としてほしい。

2016年2月8日月曜日

「ニューヨーカーに学ぶ軽く見られない英語」感想

編集者が付けたであろうタイトルはアレだけど、内容はしごく真っ当で面白く、よくあるマニュアル的なものや自己啓発系英語本とは一線を画している。

チップのことやタクシーの使い方、ホームレスの人にお金や食べ物を渡すかどうか(上から目線で施すように感じて躊躇する人が多い)など、日本からの留学生の多くが悩むであろうテーマが具体的なエピソードを交えて解説してあり、説得力に富んでいる。

ス タバのレジがいちいち客からファーストネームを聞いてマジックでカップに書き込むところに象徴されてると思うけど、ニューヨークやサンフランシスコ周辺 地域は実はけっこうアナログで昭和的。多文化多民族を前提とするアメリカンウェイをリスペクトして胸襟開いて飛び込めば必ず受容してもらえる、そのための 英語のヒントを教えてくれる実践的良書。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17621


2016年2月4日木曜日

有名人のスキャンダル報道

弁護士にとって不倫と覚せい剤は日常の出来事、ある先輩弁護士が書いているのを見て確かにそうだなと思った(弁護士がみんな不倫や覚せい剤使用をしているという意味ではない、念のため)。自分自身のことを考えてみても弁護士登録依頼13年間、不倫と覚せい剤が途切れたことはほとんどない(自分がやってるという意味ではない、念のため)。だから、テレビをはじめとするマスメディアがそんなことで大騒ぎして有名人をあげつらうことは本当に理解しがたい。

日本の現行法上は覚せい剤の自己使用は犯罪ということになっているが、司法業界では「被害者なき犯罪」とも言われている。しかし、覚せい剤自己使用者はまさに被害者にほかならない。仕事柄いままで、覚せい剤によって精神も脳神経も人生もボロボロに壊された人たちとその家族をたくさん見てきた。加害者はもちろん、覚せい剤独特の異常に高い依存性を熟知して不法かつ莫大な利益を得ている、覚せい剤の販売者たちだ。ところが有名人の覚せい剤使用が発覚したときに、こういった覚せい剤事犯の本質に触れた報道を見た記憶は全くない。

ああいう報道を見ていると、この人たちは家族に自分の仕事をどうやって説明するのだろうと思う。はたして「お母ちゃんが他人のスキャンダルを頑張ってあげつらっているから、あんたはこうやってご飯を食べられてるんやで」とか、「お父さんお母さんが私を大学まで行かしてくれたおかげで、こうやって人の弱みを報道することで高給を得られるようになりました」とでも言うのだろうか?はたして彼ら彼女らは、自分の子どもや親に自分の仕事を説明することができるのだろうか?

これまた仕事柄、子どもを養うために性風俗産業に従事している人たちも何人か見てきた。子どもには自分の仕事は内緒にしている。しかし、彼女たちが傷つけているのは自分自身であって、けっして他人の弱みをあげつらって金を儲けているわけでも飯を食っているわけでもない。そこがメディア業界の連中とは根本的に異なる。

「職業には貴賎はない」という言葉があるが、賛同できない。職業には貴賎があると考えている。かつての依頼者である後者の人たちは僕にとっては「貴」であり、マスメディア業界の前者の人たちは「賤」である、そのように常々思っている。