2019年9月4日水曜日

今、何かを表そうとしている10人の日本と韓国の若手対談

先日、念願のToi books さん初訪問。同じビルの上階には著名セレクトショップのIvy&Navy さん、並びにはUdon Kyutaro さんと丼池ストリートはなんか凄いことになっている。


もともとカッコいいビルだけど、ちょいリフォームされて更に良くなってた。厳選された書籍が店長さん独自のカテゴライズでニートに整理されてる店内は更に更に素敵。BGMの音量がまたちょうど良くて、下町からいきなり異空間オアシスに辿り着いたよう。


と気分良くしてたところへ外界から街宣右翼のがなり声が無理くり侵入してきた。アイツらの品性下劣さは本当に度し難い。

さて、韓国小説フェアであるにもかかわらず僕が選んだ本はこれ。すんません、小説ほとんど読まないんです。


冒頭の対談読み終えた。あまりに知的でヒューマニズムに溢れた言葉の交換。ショックを受けた。数年前なら単純に楽しめただろう。しかしいま現実社会に溢れてる言葉は金の為に嫌韓煽る汚物ばかり。お二人の対話がこの世のものと思えなかった。




2019年8月24日土曜日

「安心」プラスアルファ


以前、知人から「國本君の仕事は安心を売る仕事だね」と言われた。
弁護士業をサービス業と呼称することには未だに抵抗があるけど、お金をもらって仕事をしている以上、何かを「売ってる」ことは間違いない。

日本の企業は、そこそこの規模の事業でも契約書の作成を弁護士に頼まないところが少なくない。契約書などあれば良いほうで、なかには見積書と受発注書、納品書だけで取引している会社もある。最もミニマムなのは見積書だけ。

ちゃんと契約書を作っているところでも、発注元や元請けから提示された契約書を自分とこでモディファイして使い回したりする。契約書の内容を正確に理解しているわけではないし、専門家の助言なしに適当に改訂してるから、本当にこれでいいのだろうかと不安を抱えながらそういった自作契約書を使っていることが最近やっと分かってきた。

不安を自覚してたら弁護士のもとへ相談に来るかというと、そうでもない。不安があるからといって弁護士に相談するという発想に日本社会ではなりにくいし、また弁護士にどうアクセスすべきかピンと来ない人も、僕らの側が思っている以上に多いようだ。税理士や会計士、取引先企業その他実際に弁護士をよく使っている人に「それは弁護士に相談すべきだ」と言われて初めて、弁護士のもとを訪れるというケースがほとんどだ。

そうした数多くのハードルを乗り越えてきてくれた人たちに対して、最初から全力で応えるのが弁護士の仁義だと思う。不安を抱えて「安心」を買いに来てくれているのだから、適切な「安心」を売らなければならない。加えて僕がここで意識しているのは、わざわざ来てくれたのだからその不安に対応する「安心」だけでなく、プラスアルファを持って帰ってもらおうということ。

例えば交通事故の相談者。質問に答えるのは当たり前。加えて、本人が知らない「交通事故当事者が知っておくべきこと」を知ってもらう。ここまでが最低限のプロの仕事。さらに僕の場合、本人の加入している自動車保険の内容を確認し、弁護士特約・生活賠償特約・全損特約の特約3セットへの加入を勧める。全損特約はマイナーすぎて、保険代理店をしている人の中にも知らない人がいる。そういう人たちに相談本体プラスおみやげとして、この情報を持って帰ってもらう。

自動車ディーラーであれば、「弁護士がこう言ってましたよ」とオプションを勧める営業トークのネタとして、ドライブレコーダーが訴訟において果たす機能を伝える。

先日のように契約書作成の依頼者であれば、「国際取引の秘密保持契約書で最も大事なのはこの2点ですよ」とポイントを伝えれば非法律家でも、今後はいちいち全てを法律家に相談しなくても、取引先から提示された契約書の要点をある程度は読みこなせるようになる。そして、契約書だけでは穴が空くところをメール等の工夫でどうプロテクトするかを知ってもらう。

「おもてなし」系の営業本によく書いてある「お客様の想像以上のおもてなしをしましょう」なんてのは、「そんなことまでやるから日本では消費者が図に乗るんや」と毛嫌いしてた。けど、よくよく考えると自分も似たようなことをしてきている。どの業種業態の人でも相手の役に立てて、喜んでもらえたら嬉しいやね。

とはいえ、弁護士の本質はどこまで行っても職人であって、営業マンではない。オプションのおみやげをどんなに豪華にしたところで、相談者依頼者が買いに来た「製品」そのもの=「安心」の品質が悪かったら元も子もない。そして「安心」の品質追求は、引退するまで常に向上に努めるべき終わりのない作業。弁護士は職人だから仕方ないとはいえ、長年歩き続けるには、これはなかなか険しい道である。

2019年7月29日月曜日

「経営者の孤独。」土門蘭著、ポプラ社刊


東大阪で金型屋を営んでいる従兄弟に、むかし言われた。
「顧問税理士は必要やけど、会社経営に顧問弁護士はいらんやろ」

その後、弁護士として独立し、何人か顧問契約を結んでくれる人も現れた。しかし何で自分なんかと顧問契約を結んでくれるのか、正直分からなかった。あるとき、顧問先の社長が教えてくれた。
「全部自分で決めて責任を取らないといけないから、経営者は不安で孤独なんです。だから、いつでも先生に相談できるというだけで凄く助かってるんです」

そうか、なら経営者の不安や孤独をもっと勉強しようと、その類の本を書店で探すようになった。それで出会ったのが土門蘭さんのこの本。


ところが、経営者の思考や心理を知るために買ったのに、突きつけられ直面したのは自分自身の思想と生き様だった。なかでも、最も自分に迫ってきたのはクラシコム佐藤友子さんのインタビュー。以下、引用。

期待が外れて、がっかりしてもいいと思った上で、信じているから。だから、この人を信じようと思ったら、いっぱい時間作って教えて、成長を促進させたいって思うんです。そういうコストのねじがばかになっているんですよね。最初から期待しないほうが生きるのが楽だろうとは思って何度か試みたこともあったんですけど、うまくいかないんです。すぐに期待してしまう。だけど私が12年経営者としてやってくれていたとしたなら、やっぱりそういう「人」との関わり方というか、人的資産にものすごくこだわりがあって。一緒に働いてくれる人たちとは特別な関係を築きたいから、精一杯向き合おうとする経営者ではあったと思います。言いたくないことも言わなくちゃいけないっていうときには、お尻と椅子の間にびっしょり汗をかきながらでも、一所懸命正直に言ってきたし、何か誤解があるなっていうときにはその人を呼んで話し合ったし、それで解決したわけではないこともいっぱいあるけれど、コミュニケーションから逃げないっていうことは自分にすごく誓っていて。だからこそ、それがうまく伝わらなかったときには、寂しさ、徒労感、切なさは感じるんですけど、それでもやめられないんで。よっぽど人と向き合いたいんだってことですよね。だから今はもう、それを自分の「経営者としての持ち味」にしていくしかないなって、諦めている感じですね。


”人生長くても80年しか生きられないんだったら、傷ついてもいいから、本気のコミュニケーションを人ととりたい”


この部分を読んで、自分が弁護士としてのスタンスを決めた瞬間を思い出した。

クライアントは病院と執刀医だったドクター。医療側の不手際により患者が帰らぬ人となってしまった事案。
手術が上手くいかなった後、執刀医の彼は家族が要求すると夜中でも休日でも呼び出しに応じ、質問詰問に答え続けた。その時点では病院側も原因を解明するに至っておらず、彼がいくら説明しても、家族が納得しないのも無理はない状況だった。それゆえ彼が答えれば答えるほど、家族は微細な点が気になり、不信が不信を増幅していく。その後、ご本人は亡くなり、ご家族は法的手段を選択した。

一生懸命に説明を尽くせば尽くすほど誤解と不信を産んでいく姿は、悲痛としか言いようがなかった。しかし彼は言った。
「いろいろ悩んだけど、医師として自分にはこのやり方しか出来ないですから」

弁護士として5~6年目だっただろうか。一通りの仕事は出来るようになっていた。しかし説明多過なのに説明そのものが未熟だったため、ときおり依頼者からの反発を招き、こんなことなら誠意を尽くして懸命に説明しない方がマシなんじゃないかという方向に行きかけてたときだった。
医師は人の命そのものを預かる仕事。その仕事の重みが弁護士のそれとは比較にならない。まさにその命を自分のミスで奪ってしまったばかりの彼がここまでの覚悟を示したのを見て、弁護士ごときが何を甘えたこと言ってんだろうと、自分の悩みが馬鹿らしくなった。下手だろうと未熟だろうと、全力で説明を尽くさないなら自分が弁護士をやってる意味がない、そのことに気づいた瞬間だった。

だからこの佐藤さんの、途中で燃え尽きたらそれで仕方ないという感覚はよく分かる。自分が自分でなくなる方法で騙し騙しやるなら、その仕事を続ける意味などない、自分はそういう生き方しか出来ない人間なのだから。

どちらかというと佐藤さんのお兄さん、青木さんに自分は近い。学校には馴染めなかった。いつでもどこでも変わり者扱いをされた。たまたま弁護士という職業に出会い、変わり者であることがむしろ活きる職業に就けている。変わり者が生きにくいこの日本社会で、せっかく自分を貫くことが出来る特権的職業に就くことが出来たのに、それをやらないのはむしろ不誠実というものだろう。



2019年1月13日日曜日

The Blind Side「しあわせの隠れ場所」とアメリカ社会


今日は柔術の練習に行くつもりだった。ところが起きてくると妻が英語字幕学校の課題映画を流していてそれに引き込まれてしまい、家を出損なってしまった。

映画のタイトルは The Blind Side。邦題は「しあわせの隠れ場所」。最近よくあるチープかつ出来損ない邦題の代表のようなタイトルだ。

ワーナーの公式ホームページ↓

この映画を観たのはずいぶん前のこと。そのときの印象はよくある実話ベースのお涙頂戴、だけど不思議な魅力のある映画。印象に残っていたシーンは次の2つ。

「後でわたしに感謝することになるよ」と言いながらアメフトの練習にズカズカ入っていって勝手にマイケルに助言し、それが功を奏したのを見せつけたところで、サンドラ・ブロック演じるリー・アンがアメフト監督のバットに言うセリフ。

 I said you could thank me later. It's later, Burt.

公式翻訳は「御礼を言って。今がその時よ」。リー・アンの率直で強気なキャラクターを加味しての意訳になっていて、さすがプロの仕事。直訳的に訳せば、「後でわたしに感謝することになるって言ったでしょ。今がそのときよ、バート」って感じだろうか。
しかしこの“It's later”っていう言葉、laterって形容動詞だからBe動詞の目的語にはならないはずで文法的にはおかしいんだけど、その言葉遊びが英語的であると同時に、リー・アンのキャラクターを一言で表していて前に見たときも印象に残ったし、今回見直して改めて魅力的なシーンだと思った。

もう一つは、家庭教師スーの採用面接シーン。面接の最後にスーがリー・アンに「わたしを雇うに際して、あなたには言っておかなければならないことがある」と言って、彼女の秘密を打ち明けるシーン。

I’m a Democrat.

「わたし、民主党なの」

本編の舞台はテネシー州メンフィス。行ったことはないけど、この一言で「共和党にあらずば人にあらず」の土地柄なのが分かる。日本から見るとアメリカは共和党と民主党の二大政党で両者が拮抗しているように見えるけど、民主党支持者というだけで変人扱いされる地域が実は少なくないようだ。公式翻訳は「民主党支持なの」だけど、あちらでは支持者と党員の境目はあまりないし、テネシーでわざわざ民主党支持になる人は恐らく党員と見て間違いないだろう。だから僕はここの訳は「民主党員なの」もしくは「民主党なの」が適切だと思う。

さて、このDVD、オプションの映像特典が豪華だ。本編に登場する各大学の監督たちが、いずれもその当人であることを知って驚く。サンドラ・ブロックとリー・アン本人との会話は見るからに波長が合ってて、サンドラ演じるリー・アンのキャラがより一層見えたような気がする。
本作を撮った監督と原作者との会話が圧巻だ。原作と本作それぞれの制作過程やその背景が明かされる。

驚いたのは、リー・アンの父親が暴力的なレイシストだったという話だ。そのような家庭で育った彼女が自覚的に人種差別に与しない人間になったのは、夫であるショーンの影響が大きいと言う。多くのハイレベル白人バスケ選手がそうであるのと同様に、ショーンは学校外で黒人少年たちとストバスをしながらニューオーリンズで育ったため、黒人の友達も多い。過激な白人至上主義者であるリー・アンの父親が参列している結婚式でショーンの介添人は黒人の友人に務めてもらったというのだから、若いときから腹の据わっている夫婦だったのだろう。

2人は、他地域の人が抱いている「夫に従順で一歩下がる南部女性」というイメージと異なり、実際の南部女性は意見をハッキリ言う人が多いと言う。ただし「我が家で決定権を持ってるのは妻だ」という男性は、実際には女性に対して支配的な男だとも言う。しかし2人はショーンに関しては本当だと口を揃える。そして南部女性の中でもリー・アンは本当に特別なんだと。

本作に出てくる女性はみんな強くてタフだ。母親のリー・アン、家庭教師のスーは言うに及ばず、妹のコリンズもNCAA調査官に至るまで物語の鍵を握るのはみな女性で、かつ強い。
意外なことに監督のジョン・リー・ハンコックは、制作時にはそのことを意識してなかったのだという。脚本を完成させて映画を撮影して完成してみれば、結果的にそうなっていたのだと言うのだ。これまた興味深いエピソードだ。

1度目を英語字幕で観て、映像特典にすべて目を通し、日本語字幕で2度目を観たら、貴重な休みの1日が終わってしまった。タイトルが暗喩するアメリカ社会の闇の部分と、アメリカ文化を構成している人々が放つ光の部分の両方が一つ一つのシーンに盛り込まれつつ、それをサラッと表現しているところが本作の魅力なんだと思う。

なお、タイトルになっているクオーターバックのブラインドサイド(死角)とマイケル・オアーのポジションについては、こちらのナンバーの記事が参考になった。







2018年6月14日木曜日

いわゆる「親なきあと」問題について

権利擁護たかつき高岡さんの助言も得て、成年後見人の複数選任と遺言で対応しようというのが当初の方針だった。
その後、家族信託も組み合わせたスキームの検討に入り、親御さんと相談しつつ大方の枠組みは作れたが、どうもスッキリしない。理由は分からないが、それで間違いなく依頼者たちの利益に適うという確信、ピタッとはまった感覚がないのだ。



この本を読んでその原因が分かった。徹底して依頼者たちのニーズを把握する姿勢が欠けていたのだ。彼女たちの置かれている客観的状況とそこから生じるニーズを漠然とした把握にとどまったままで自分の思考枠組みを無理やり当てはめようとしていたことに気づいた。弁護士がついついやってしまう、典型的だけど致命的なミス。この本のお陰で、実行に移す前に気づくことが出来た。

まだ代替案を構成できたわけではないが、考え方の方向性は見えたような気がする。前著も感銘を受けたが、具体的な指針をいくつも提示してくれているこちらの方が僕ら実務家にはさらにありがたい。

2018年6月13日水曜日

交渉術の実際

交渉で一番難しいのは実は、①交渉相手と最初の接点を作ることだ。
そこをクリアすると次に、②互いの優先順位のズレを探る作業に入る。激しく争ってる当事者間でも、両者の第1優先順位が全く同じでがっちり噛み合ってることは意外と少ない。もし互いの優先順位が全く同じ、例えば互いに金額の多寡にしか関心がなく、かつその金額で折り合いがつかない場合は合意による解決の可能性がないことが判明する。それはそれで1つの結論が出たことになる。
③互いの優先順位にズレがあることが判明すると、そこからがいよいよ交渉の勘所、互いの利益の擦り合わせ作業に入る。擦り合わせ出来れば合意に達するし、そこに至らなければ決裂する。これは当たり前の話。

以上はあくまで一般論。事案と当事者によっては②を丸ごとすっ飛ばして、いきなり③に入れることもある。けど、そこの見極めが難しい。自分から③に入ると、足下を見られて不利な交渉を強いられることもあるからだ。
裁判の場合は、②と並行して、或いは②の前に主張と証拠のぶつけ合いという場面がしばらく続く。裁判所という仲裁者がいるので、主張のぶつけ合いでどれだけ優勢になるかが、③のスタートラインを大きく左右する。訴えた側の原告がここまでで大きく攻め込んでいれば原告に有利なところから③が始まるし、訴えられた被告がそこまでによく守り切っていればその逆になる。

①の場面に先立ち、弁護士が依頼を受けた方が良いか、弁護士が表に出た方が良いかを検討することもある。特に、相談段階で双方の戦略を分析した結果、法的にはこっちが不利或いは全く対等な事案では、法的な土俵での勝負になるとまずいので、弁護士が表に出ない方法を勧めることもある。直近の事案でも、きちんと費用を頂いて國本が表に出て交渉したにもかかわらず何の成果も上げられなかった苦い経験もあるし、相談と助言を繰り返して会社の経営権を取り戻すことに成功したこともある。後者で受任したのは合意書案の代筆だけなので、交渉そのものを受任する場合に比べて弁護士費用はかなり安くなった。依頼者にとってリーズナブルな費用で大きな成果を上げられたので、自分としても満足度が高いし、大きな成功体験となっている。

楽して儲けようとする弁護士の中には、そういうことを全く考えず何でもかんでも受任し、②や③の作業をすっ飛ばす人もいる。そうすると圧力一辺倒になる。もちろん成果は出ない。でも成果が出なかったことは裁判官など第三者のせいにすればいい。圧力一辺倒だと、依頼者の目には弁護士が頑張ってるように見えるので、依頼者の矛先は弁護士には向かない。成功報酬は入らないけど、②③に要する膨大な労力を省くことができるので、受任時に受け取った着手金だけでも割が合うのだろう。

①②③のスキルを体得するために、弁護士は膨大な労力をそれまでに投下してきている。100件あれば100件とも違う実際の事案に①②③のセオリーを応用するには、膨大な労力を必要とする。特に②③の作業では、交渉相手のみならず、自分のクライアントにも繰り返し選択と妥協を迫らざるを得ないので、ちょっと手を抜くとクライアントとの信頼関係が崩れ、その矛先が自分に向くこともある。②③は、とても神経をすり減らす作業になる。でもそれをやり通すスキルと姿勢を持っているからこそ、弁護士は交渉のプロなのだ。最近は、顧問先から都度相談を受け、①②③のスキルと経験を駆使してトラブルの芽が小さいうちにそれを積んでいくことに、弁護士としてのやりがいと喜びを感じることが多い。

2018年6月9日土曜日

以前の依頼者からの連絡

【相談者本人の了承を得て書いています】

先日、かなり昔の依頼者から相談の電話をもらった。給与の未払を巡るトラブルだ。

弁護士は法律の専門家だということは、世の多くの人が認識している。しかし、法律の専門家ということは法制度の専門家だということでもあり、各種トラブルに対応する公的制度に精通していることも意味する(また精通してなければならないことも意味する)。

給与の未払と言えば、相談する先は労働基準監督署だ。法律相談の機会をもって事情を聞き、その上で労基署に行くこととそこで相談すべき内容をアドバイスするのが通常だろう。しかし彼は切羽詰まってるし、わざわざ労基署に行けと言うためだけに法律相談のアポイントを作るのは迂遠だ。それになにより労基署はじめ役所の窓口は、担当者によって当たり外れが大きいので、彼1人を行かせてきちんと対応してもらえるかどうかが心配だった。

そこで今回はかなりイレギュラーだが、以前の依頼者である彼自身のことを既に知っているということもあり、出張法律相談扱いで労基署で待ち合わせて、労基署への相談に同行することにした。幸いその日の担当者はすごく良い人で、労基署との相談はさくさく進んだ。
労基署を出てから少しだけ、僕が彼から依頼を受けた事件の後に彼がどんな人生を送ってきたのかを教えてくれた。それなりに順調に暮らしているようで、そんなことを話してくれたことがとても嬉しかった。

ここのところ、ずいぶん昔の依頼者が連絡をくれることが続いている。インターネットが発達したおかげで、いま現在の國本の連絡先は検索して見つけること自体は至極簡単だ。わざわざ連絡先を調べて、國本に相談しようと思ってくれることが何より嬉しい。弁護士冥利に尽きるとはこのことだと、つくづく思う。