2018年6月14日木曜日

いわゆる「親なきあと」問題について

権利擁護たかつき高岡さんの助言も得て、成年後見人の複数選任と遺言で対応しようというのが当初の方針だった。
その後、家族信託も組み合わせたスキームの検討に入り、親御さんと相談しつつ大方の枠組みは作れたが、どうもスッキリしない。理由は分からないが、それで間違いなく依頼者たちの利益に適うという確信、ピタッとはまった感覚がないのだ。



この本を読んでその原因が分かった。徹底して依頼者たちのニーズを把握する姿勢が欠けていたのだ。彼女たちの置かれている客観的状況とそこから生じるニーズを漠然とした把握にとどまったままで自分の思考枠組みを無理やり当てはめようとしていたことに気づいた。弁護士がついついやってしまう、典型的だけど致命的なミス。この本のお陰で、実行に移す前に気づくことが出来た。

まだ代替案を構成できたわけではないが、考え方の方向性は見えたような気がする。前著も感銘を受けたが、具体的な指針をいくつも提示してくれているこちらの方が僕ら実務家にはさらにありがたい。

2018年6月13日水曜日

交渉術の実際

交渉で一番難しいのは実は、①交渉相手と最初の接点を作ることだ。
そこをクリアすると次に、②互いの優先順位のズレを探る作業に入る。激しく争ってる当事者間でも、両者の第1優先順位が全く同じでがっちり噛み合ってることは意外と少ない。もし互いの優先順位が全く同じ、例えば互いに金額の多寡にしか関心がなく、かつその金額で折り合いがつかない場合は合意による解決の可能性がないことが判明する。それはそれで1つの結論が出たことになる。
③互いの優先順位にズレがあることが判明すると、そこからがいよいよ交渉の勘所、互いの利益の擦り合わせ作業に入る。擦り合わせ出来れば合意に達するし、そこに至らなければ決裂する。これは当たり前の話。

以上はあくまで一般論。事案と当事者によっては②を丸ごとすっ飛ばして、いきなり③に入れることもある。けど、そこの見極めが難しい。自分から③に入ると、足下を見られて不利な交渉を強いられることもあるからだ。
裁判の場合は、②と並行して、或いは②の前に主張と証拠のぶつけ合いという場面がしばらく続く。裁判所という仲裁者がいるので、主張のぶつけ合いでどれだけ優勢になるかが、③のスタートラインを大きく左右する。訴えた側の原告がここまでで大きく攻め込んでいれば原告に有利なところから③が始まるし、訴えられた被告がそこまでによく守り切っていればその逆になる。

①の場面に先立ち、弁護士が依頼を受けた方が良いか、弁護士が表に出た方が良いかを検討することもある。特に、相談段階で双方の戦略を分析した結果、法的にはこっちが不利或いは全く対等な事案では、法的な土俵での勝負になるとまずいので、弁護士が表に出ない方法を勧めることもある。直近の事案でも、きちんと費用を頂いて國本が表に出て交渉したにもかかわらず何の成果も上げられなかった苦い経験もあるし、相談と助言を繰り返して会社の経営権を取り戻すことに成功したこともある。後者で受任したのは合意書案の代筆だけなので、交渉そのものを受任する場合に比べて弁護士費用はかなり安くなった。依頼者にとってリーズナブルな費用で大きな成果を上げられたので、自分としても満足度が高いし、大きな成功体験となっている。

楽して儲けようとする弁護士の中には、そういうことを全く考えず何でもかんでも受任し、②や③の作業をすっ飛ばす人もいる。そうすると圧力一辺倒になる。もちろん成果は出ない。でも成果が出なかったことは裁判官など第三者のせいにすればいい。圧力一辺倒だと、依頼者の目には弁護士が頑張ってるように見えるので、依頼者の矛先は弁護士には向かない。成功報酬は入らないけど、②③に要する膨大な労力を省くことができるので、受任時に受け取った着手金だけでも割が合うのだろう。

①②③のスキルを体得するために、弁護士は膨大な労力をそれまでに投下してきている。100件あれば100件とも違う実際の事案に①②③のセオリーを応用するには、膨大な労力を必要とする。特に②③の作業では、交渉相手のみならず、自分のクライアントにも繰り返し選択と妥協を迫らざるを得ないので、ちょっと手を抜くとクライアントとの信頼関係が崩れ、その矛先が自分に向くこともある。②③は、とても神経をすり減らす作業になる。でもそれをやり通すスキルと姿勢を持っているからこそ、弁護士は交渉のプロなのだ。最近は、顧問先から都度相談を受け、①②③のスキルと経験を駆使してトラブルの芽が小さいうちにそれを積んでいくことに、弁護士としてのやりがいと喜びを感じることが多い。

2018年6月9日土曜日

以前の依頼者からの連絡

【相談者本人の了承を得て書いています】

先日、かなり昔の依頼者から相談の電話をもらった。給与の未払を巡るトラブルだ。

弁護士は法律の専門家だということは、世の多くの人が認識している。しかし、法律の専門家ということは法制度の専門家だということでもあり、各種トラブルに対応する公的制度に精通していることも意味する(また精通してなければならないことも意味する)。

給与の未払と言えば、相談する先は労働基準監督署だ。法律相談の機会をもって事情を聞き、その上で労基署に行くこととそこで相談すべき内容をアドバイスするのが通常だろう。しかし彼は切羽詰まってるし、わざわざ労基署に行けと言うためだけに法律相談のアポイントを作るのは迂遠だ。それになにより労基署はじめ役所の窓口は、担当者によって当たり外れが大きいので、彼1人を行かせてきちんと対応してもらえるかどうかが心配だった。

そこで今回はかなりイレギュラーだが、以前の依頼者である彼自身のことを既に知っているということもあり、出張法律相談扱いで労基署で待ち合わせて、労基署への相談に同行することにした。幸いその日の担当者はすごく良い人で、労基署との相談はさくさく進んだ。
労基署を出てから少しだけ、僕が彼から依頼を受けた事件の後に彼がどんな人生を送ってきたのかを教えてくれた。それなりに順調に暮らしているようで、そんなことを話してくれたことがとても嬉しかった。

ここのところ、ずいぶん昔の依頼者が連絡をくれることが続いている。インターネットが発達したおかげで、いま現在の國本の連絡先は検索して見つけること自体は至極簡単だ。わざわざ連絡先を調べて、國本に相談しようと思ってくれることが何より嬉しい。弁護士冥利に尽きるとはこのことだと、つくづく思う。

2018年6月7日木曜日

「何かあったらお願いします」からの脱却?


先日、柔術アカデミーの更衣室で新しく入門された方から「仕事は?」と聞かれて弁護士だと答えたら、
If I get arrested, I’ll ask you.
と言われた。弁護士が身近なはずのオーストラリア出身者ですら、そういう感覚なのかと驚いた。

法律相談以外の機会で会った人に弁護士ですと名乗ると、決まって返ってくるのが
「何かあったらお願いします」
社交辞令だとは分かっているが、多くの弁護士は内心「何かあってからでは遅いんですよ」と呟きながら、その言葉を飲み込んでいる。

もちろん弁護士の本領は、発生してしまったトラブルへの対処と解決だ。日本には様々な法律職種が存在するが、最終的な紛争解決手段である裁判制度を担う弁護士は、必然的に紛争発生後の分野を主に担うことになる。
しかし多種多様なトラブルを扱った経験があるということは、「あのとき事前にこれさえしといてくれれば、ここまで大きな問題にならなかったのに」という経験も同じだけしているということだ。だから自分のように訴訟をはじめとする紛争事例を数多く扱っている弁護士は、トラブル予防に関してもそれなりの専門的知見を有しているという自負がある。

相談者依頼者らユーザーサイドにしても、トラブル発生後に弁護士に依頼するよりは、事前に弁護士に相談しておいて未然にトラブルを防ぐ方が、効率的でストレスも少ないし、たいていの場合は弁護士費用もはるかに安く済むはずだ。

「予防法務」という言葉は、ある程度の規模の企業やそういう企業を顧客とする中堅あるいは大手ビジネスローヤーたちの中でだけ使われていて、その他大勢の人たちには知られてもいないのが現状だと思う。

この現状を何とか変えることができないか?

「何かある」前に弁護士に相談してトラブル発生を防ぐことは、明らかにユーザーにとってメリットが大きい。
他方、弁護士にとっても、いつ来るか分からないし結果もどうなるか分からない紛争事例を主たる収入源とする「水商売」では、なかなか経営が安定しにくい。せめて人件費や家賃、光熱費に弁護士会費用などの固定経費を心配しないで済む程度の定収入があると、精神的にもだいぶ違う。古典的な方法としては顧問先を増やすことだが、それも簡単ではないし、「予防法務」を提供することにより自分たちも定収入を得て経営を安定させる方法は、もっと外にもあるんじゃなかろうか?

ということをこの間、何年もえんえん考え続けているが、良いアイデアは今のところ見つかっていない。果たして思考の方向性自体は合っているだろうか?

2018年6月4日月曜日

見え方の「相対性」


高校時代、弱小柔道部とはいえ毎日それなりにハードなトレーニングを積んでいたにもかかわらず、最軽量級である60㎏以下級の制限にも遙かに及ばない57㎏しかなかった。試合に出れば、いとも簡単に投げ飛ばされた。子どもの頃から体が大きい方ではなかったこともあり、自己認識は「小さくて華奢」だった。

働き始めてから、その自己認識と周りからの見られ方にズレがあることに気づき始めた。スーツを試着すると「何かスポーツやってますか?」と聞かれることが多いからだ。スーツを着ると胸や背中まわりが強調されるのか、異業種交流会などでも「何かやってますか?」と尋ねられることがままある。日本で暮らす平均的な人と比べると体に厚みがあるのかもしれないなと、自己認識が若干修正され始めた。

2011年にカリフォルニアに留学し、またもや自己認識が根本的に入れ替わる。自分と同じくらいの体格のアジアルーツの人も多い地域ではあるが、それでも同じホモサピエンスと思えないくらい大きな人がゴロゴロいてる。町中でたまたま出会った柔術アカデミーの仲間をカミさんに紹介したとき、「アンタあんな大きい人と練習してんの?殺されるんちゃうか?」と驚かれた。当時の自己認識はタイニータイニージャパニーズ。自分よりも遙かに大きい人たちと練習することは当たり前だったので、彼女の反応にむしろ驚いた。

2012年に帰国。再び地下鉄で通勤するようになって最初に思ったのが「みんな細いなあ」。日本の男性もほとんどは自分よりは背が高いのだけど、骨格が違うのか、カリフォルニアで周りにいた人たちに比べると華奢に感じる。そして自分はと言えば、再び「胸板厚いですね。何かやってるんですか?」とたびたび尋ねられるようになった。

2016年、ブラジリアン柔術を再開した。アカデミーの仲間も鍛え上げられてる人が多いけど、特に大会会場に行くと物凄い人数のゴツい人に囲まれて、自分はなんて貧弱なんだろうと場違いに感じる。

体格に対する自己認識1つ取ってもこんなにも不安定で周囲との関係で大きく変わるのだから、物事の見え方の相対性って何とも不可思議で面白いもんだなあと思うのです。